新年……。2012/01/04

 3が日過ぎて今更「あけましておめでとう」もないもんですが。
 何で今年の正月ってこんな、3日ともぐったり疲れることになってるんだろう……。
 元日は同じマンションの別室に住む父方の祖母を招いて兄夫婦と一緒に昼を食べ、地震で止まったガスの復旧作業がうまくいかなかった祖母の為にガス会社に連絡を入れたりもし、2日は母方の祖母の家へ顔を出して近所の神社に初詣して、3日は父方の親戚会。
 ……割と婚家の嫁のごとくの働き方は したと 思 できれば否定しないでもらいたい。

 ネットもほとんど落ち加減でしたが、テレビはいつもより見た感じです。
 どれも「途中から」とか「一部分だけ」て感じですけど。歌舞伎とか紅白とか箱根駅伝とか能とか世界一のショータイムとか落語とか。

 能がねー、面白かったんですわこれが!字幕のおかげで台詞もわかりやすい!
 Eテレ2日、厳島観月能の「融」。
 能なので筋って程の筋はないのですが、東国から都見物のため旅してきた僧が「六条河原の院」跡地の廃墟へやってくる所から始まります。
「六条河原の院」とはかつての左大臣・源融の屋敷であり、風流好みの上お大尽の館に相応しい贅沢なおうちであったのですが、まあ今は廃墟な訳です。
 誰か近所の人が来たらこの館の逸話やお庭の解説をしてもらおう、と僧が待っていると、翁が1人池の端にやってくる。何してるんですかと僧が問うと「汐汲みに来た」と答える──京都の庭で、塩作りの為の海水を汲みに来た。言ってることが明らかにおかしい。
 だが老人は「ここは大臣が陸奥の塩竈を模して作ったところなのだから池の水でも汐汲みなのだ、怪しいことはない」と言う。
 そっかーとか納得してる場合か坊さん。
 あ、じゃぁこの辺りに詳しいですか?このお庭については?と吞気に問う僧に、この屋敷のかつての在り様からお庭の隅々まで、何でも答えてくれる翁。
 そしてやがて「やあ長い話になった、汐汲みをしなければね」と池に桶を下ろし──おじいさんはそのまま消えてしまう。

 ぽかんとする坊さんに声を掛けてくるのは、今度は普通に近所の人。坊さんもう一度その人にこのお家の解説を頼み、その後で聞いてみる。
「今汐汲みだって言うおじいさんが来て、今貴方が言うような話を聞かせてくれて、そのまま消えちゃったんですけど誰だか心当たりはありますか」
「あぁ、多分源の左大臣だ。あんたお坊さんだし、懐かしくなって出て来ちゃったんだろうね」
 そして、近所の人は言う。
「お坊さん、急ぐ旅かもしれないけど今夜はここへ泊まっていってあげなよ。またあの人来るかもしれないし」
 そこ、止める場所じゃないのかよ!(『また奇特あれかし』の意図がこれであってるか若干疑問ですが)
 で、泊まっていくと夜の庭に今度はあでやかな公家の姿で融が現れて、今度は何を語るでもなく謡いながら舞を舞い、夜明けと共に消えていく。

 それだけの話です、が。
 前半部分、その汐汲みの翁の存在感がすごい。その翁の周りだけ空気が濃縮されているというか、生身の人じゃないという役柄の本性をにじませているからまずもって怖い。それで居ながら昔を懐かしむ姿はどこか哀しく、少し可笑しくもあるという、その様子に目が離せない。
 また、照明がニクい。水面に当てた光が間接照明で舞台に揺らめいているという、幽玄の雰囲気を狙いすぎるギリギリの演出だけど綺麗。
 能って、背景とか全然ないんですが、不思議なんですよね。
 趣味人の阿呆みたいに広くて趣向を凝らし過ぎのお庭が、見えた。今能の解説を検索してみると、老人が語る山の名前は庭から見える都の名所案内だって言うんですが……これ、お庭に作った「見立て」の築山や祠の説明じゃないの……?その位広大でもありえるわよ?
 でもって、「消える」ところは勿論現実には「橋懸かりを渡って退場」なのですが、それが本当に「消える」ように見える。
 もしかしなくても、多分これすごい舞台だった。

 ま、そんな感じの3が日でした。今年もよろしくです。

 追記:能のテレビ、演者の人調べてみたら人間国宝だった……どうりで……。