「カムカムエヴリバディ」:アイデンティティの物語2022/04/17

1:私と私とわたしの物語

「カムカムエヴリバディ」が何の話であったか、と考えると長考に入った末、やはり「わたし」の物語だったのだろうなという結論に入ります。
「わたし」、つまり個人のアイデンティティの物語であり、そしてそのアイデンティティを作る他人との関係の物語であり、その他人との関係を動かす社会の物語でもありました。
 ヒロインがひとりであれば、その社会はあくまでたった1人が関われる範囲の物語であったでしょう。広さで言えば世界の片隅、小さな点の微々たる動き。
 しかし「カムカムエヴリバディ」にはヒロインが3人いる。置かれた立場も時代も異なる3人が関わる、周囲の人たちも3人分存在する。
 ちゃんと数えた訳ではないけれど、朝ドラ史上最も短い112話の中に、朝ドラ史上まれにみる数の登場人物を配した作品ではないでしょうか。
 ヒロイン1人1人の点である世界を、3つ掛け合わせることで面の動きに読み取らせることを可能にしている。
 ミクロにしてマクロ。
 個人的な話の中に浮かび上がる普遍的な導線。
 物語の最初を飾る、安子編のキャッチコピーは「これは全ての「私」の物語。」でした。
 自分のアイデンティティを形作り、そのアイデンティティは他人との関係で動いていき、その「他人」の行き着く先が日本の外の国の人までたどり着く。
 橋渡しのツールとして、そして「他人」に照らして改めて「自分」を考える為にも、外国語というテーマは必然性が高いと思います。
 英語でなければならないのは一番ポピュラーであるだけでなく、戦争の敵国として断絶の歴史がある国の言葉であることが「他人」としての役割を強めるからかと思います。
「あなた」でもある「わたし」の物語。
 考えるほどに広く、懐の深い、そして希望の物語であったなあと思うのです。


2:るい 暗闇からひなたへ向かう物語

 物語は年代順に進んでいきますが、まずは2番目のヒロインであるるいから話を始めます。
 安子の物語は全ての始まりでありますが、同時にひなたの物語と密接に呼応するので、後で一緒に語ります。
 るいは安子やひなたと異なり、章が始まった段階で自分と他人の境を分けるアイデンティティは確立しています。
 しかし彼女の問題はそのアイデンティティが、自己否定的な性質を帯びている所にあり、それを書き換えていく物語でした。
 アイデンティティは、自分と他人を分ける線引きでもありますが、るいの場合は母である安子の拒絶が最初の線引きです。
 ロバートとの恋に「捨てられた子」として、或いは閉め出して安子を「捨てた」子として、親の負担でしかなかった子、そして裏切り者である親の子であるという自己認識を負ったことは想像できます。
 るい編初期のるいは、寡黙で後ろ向きな隠者であり決して魅力的とは言えません。竹村夫妻と、勿論錠一郎と。新しく得た家族と生活していくことで、自分が「大月」の主として生活の主体となり一家の先頭に立つことで、段々自分を肯定的に見られるようになっていく。
 最初は重い前髪でひた隠しにし、罪の証のようにしていた額の傷を、段々隠さなくなってもよくなる様を短くなる髪型で表すのが象徴的でした。
「旗本退屈男みたいでかっこええな」というひなたの言葉、算太の納骨に伴う数十年振りの雉真家帰省で知る、昔は信じて受け入れられなかった愛情。その上でるいはやっと「お母さんに会いたい」までたどり着くことができる。
 傷ついた自己認識が新たな自己肯定のアイデンティティに支えられて、薄らいでいくるいの物語。
 その過程は、しかし互いのアイデンティティを尊重し自他の境界に踏み込まず、踏み入れさせず、支え合う錠一郎との夫婦関係という、令和の視点で少し進んだ理想の関係性をもって描写されます。
 るいは安子との別れで、錠一郎は演奏能力の消失で、アイデンティティの在処に互いが知る心の傷があるからこそ不可侵になっているそのパラドックス。
 ひなたが安子の苦闘を「進んだ人」と評して意味付けを変えていくように、ひなたの次の世代からかっこよく思われるように描写されているところに作り手の込める希望があるでしょう。
 望んだ訳ではなく、間違いもある、それでも必死で生きてきた結果が後から思わぬかたちで評価される事もある。
 登場人物に対する脚本・藤本有紀の愛情深さがドラマの根底なので起きる事態の波乱に耐え、理想にも白々しさを感じないのだと思います。


3:安子とひなた 破滅と救済の物語

 安子編は、アイデンティティの喪失であり再建に失敗する物語。ひなた編は、アイデンティティの形成への悩み多き物語ですが母と祖母の人生を肯定し物語全体を救う役割も帯びています。
 安子もひなたも、良好な関係を持つ家庭で育った幸せな子供という共通項があり、そこからの対比で時代を表していると思います。
 安子は「家」が人の生き方を決めていく時代に居ましたから家の存在が社会的承認の面でも、本人の自己認識の意味でも「アイデンティティ」で問題がなかった。
 自分が自分の生き方を決めるという概念を持つことがないまま戦争で「家」を根本から失った場合、その再建を通じてしかアイデンティティの復活を考えることはできなかったでしょう。
 その核は稔の忘れ形見であるるいになる。しかしるいは安子の娘だけでなく雉真家の娘でもある。安子が復活させようとする橘家と言わば二重の所属である為に、そしてるいと安子は親子であっても別の人格である為に、その結末は悲劇の別れとなる。
 一方ひなたの時代は、自分が自分で人生を考えるのが当たり前の時代です。
 ことに都市部では家から出て職を持つ、それがひとつ社会の承認としての意味を持つようになった。「家」が人生の核となるのが普通と育てられているだろうお茶の師匠、野田家の跡取り娘である一恵もまずは「家に縛られない生き方」を主張して映画村でバイトをする訳でして。
 特になりたいものもなく、現状の生活に不満もなく。
 それでも何かを望むことが求められる場合、自分の個性だと思う好みの中で、望んで他人の承認が得られるものを流されるように目標に選んでいくのは、むしろ普通なのではないでしょうか。
 お姫様コンテストであり、「時代劇を救って欲しいのだ」であり、追うべき夢を持った恋人との結婚です。英会話講座にすぐ結果が出ることを求めるのも評価を目標に持つからですね。
 子供の頃から、学校で人と違ったことをする度笑われ叱られしてきたひなたが、それでも「お侍になりたい」という抽象的な志を何となく持ち続けているのは「幸せな子供」の根の強さに思えます。
 目標の立て方に悩むひなたが、家の再建で受動的なアイデンティティを回復しようとする安子の話を、頼るものなく独りで「たちばな」の旗を掲げて生きようとする「進んだ人」のチャレンジと受け取った。
 それは時代の価値観の変化であり、行動の本質を掴むのが上手い錠一郎譲りの感性であり、「ひなたの道」のポジティブさと共通する「お侍」の姿勢でもありましょう。弱くある他者の肯定です。
 肯定される安子の人生に、「進駐軍さんと恋して子供を捨てた」否定されるべき存在である安子の娘と自認してきたるいが考えを変え始める。その下地が算太の受け入れと雉真家帰省に繋がる線になっていく。
 人物の行動の影響が舞台の時間の流れと逆行した別の時間に作用して、その更に先の時点の別の人物の行動に繋がる複雑な導線は「カムカムエヴリバディ」を特徴づけるものでありますが、安子とひなたの呼応がるいと安子を引き寄せていくひなた編の構図の精緻さ・力強さは考える程に凄みを感じます。美しい。

 安子はるいとの別れで完全に「家」から切り離された個人になったことで、アイデンティティの根本的な変革をせざるをえなかった。
 ひなたは文四郎と別れることで他人にアイデンティティを預ける迷いから抜け出した。
 安子はロバートとの暮らしを経て映画を学び、その職に就くことで新たなアイデンティティを得る。
 ひなたは安子というルーツに触れることで「挑戦」そして英会話というアイデンティティを得る。
 この結果が「サムライベースボール」を通じた二人の出会いに繋がり、仕事を通じて安子とひなたが信頼を結ぶことが、安子とるいの間に残る不信を解くことに繋がっていく。
 会いたいのに、互いに相手の拒絶を想定に入れてしまう安子とるいの間で走り、「悔いのない人生を選んでよ。ひなたの道を選んでよ」と安子をるいの元へ連れて行くひなたはるいを信頼し、また互いに「会いたい」ことを理解しているからそうできるのですね。
 それはひなたがるいや安子と同一化しているのではなく、自分が他人であるから得られる視点であり、そこで自分が走るべきだと決めるのはひなたの見返りを求めず人を助ける「お侍」としての矜持である。
 連れてこられた安子を見たるいはステージ上で絶句し、再び歌い出す。
「I used to walk in the shade with my blues on parade But I'm not afraid...this rover's crossed over」
(暗い毎日だった でももう怖くない さまようのはやめにした(カムカムエヴリバディドラマガイドより抜粋・小川隆夫訳))
 安子に呼びかけるように、自分に言い聞かせるように、歌ってから駆け寄るるい。
 物語の全てが集約する、圧巻の再会シーンでありました。


4:一筋の血じゃなく、個人と個人で継承する、社会。

 アイデンティティは、自分の中から自発的には湧いてこない。
 所属する社会や環境から作られる外枠であり、その外枠に対して自分がどう対していくか経験や価値観で決めていく事で内枠を作る輪郭線でもあります。
 だから「家」に拘らなくてもいいし、同じ職業に留まらなくてもいい。過去と同じ姿で在り続ける必要もない。
 勿論全てを変えなくても、去って行かなくてもいい。
 安子は「たちばな」を再建することはできなかったけれど、岡山から遠く離れた横須賀の地で、ごくわずかな縁から起こした店に「たちばな」とつけた少年がいる。
 あんこのおまじないはるいへ、ひなたへ引き継がれて今度は「大月」共々桃太郎の嫁の花菜が継ぐ。
「ディッパーマウス・ブルース」は定一を偲んで健一が孫の慎一と再び店を開け、健一の死後は定一に拾われた血の繋がらぬ孫とも言える錠一郎がるいと引き継ぐ。
 安子が映画を通じて成し遂げたかった夢は、そもそも稔の「どこの国へも行けて、どこの国の人ともつき合えて、どこの国の曲でも自由に聴ける」世界で世界を相手に仕事がしたいという架け橋の夢である。
 アニー・平川の名は直接の縁のない平川唯一にあやかった。
 直接の繋がりは見えない、けれども電波を通じて広く伝わり身近に届く、その象徴が「ラジオ英会話」であって、その系譜にひなたが加わる。
 他人と他人の架け橋に。
 その願い故に「ラジオ英会話」がテーマである必要があって、ひなたのテキストブックとして物語がまとめられる必要があった。
 誰かが夢を、希望を継いでいく。
 血縁に、年齢順に縛られないネットワーク。
 病気で、あるいはトラウマで、何一つ動けない不遇の時期があってもそのアイデンティティは尊重されるべきである。
 身につけた技術と誇りは奪われない。
「ひなたの道」を選んで生きろ。

「カムカムエヴリバディ」は全ての生の全肯定、そして幸せに向けての強い祈りの物語でした。
 ひなたの道を歩けば、人生は輝くよ。

「鎌倉殿の13人」:源頼朝について考える。2022/04/20

1:ひどいけどつらい。
「鎌倉殿の13人」15回「足固めの儀式」。
 衝撃の上総広常謀殺。頼朝が御家人の結束を固めるための、──引いては御家人の支配を強めるための、見せしめとして衆人環視の元で殺される罪無きNo.2。
 頼朝の仕打ちは残酷であり、冷酷である。
 しかしふと、もしかしてこれは頼朝にとって、第二の旗揚げとでも言うべき局面であり、これまで雑な扱いをしては御家人の信望を無くしていく頼朝の描写とは一線を画すものではなかろうか。と思いました。
 そう考えると、頼朝の置かれた環境の推移と心の動きが少し違った様子で見えてくるのです。
 誰でもいい使い捨てのコマではないからこそ、頼朝は広常を選んだ。
 選ばれるのは、むしろ関係が良く信頼できる相手だったからであり、それを殺し冷酷非情の主君として生きていく覚悟が頼朝にある。
 なぜなら、頼朝は親の仇を討つまで生き抜かねばならないからだ。
 その旗揚げの頃の決意が、今ここで再提示されるということは、その本願を忘れかけていた時期があるということです。
 つまり、油断をしていた。
 もっと気を抜いて穏やかに生きていけるような幻想を見てしまった部分が、あの頼朝にあるのか。
 誰も信じない、心は安達盛長にしか開いてない、猜疑心の塊のような頼朝が、人並みの幸せをうっかり望んで気を弛めた部分があって。
 それを捨てる為の依代に上総広常を選んだのだ。

 信じて尽くした「武衛」に惨殺される広常の哀れは勿論、惨殺する頼朝の側にも業とでも言うのか、運命に翻弄されていく辛さがあって、それが放送前に演じる役者さん達からずっと「15回がすごい」と言われ続けていた魅力でもあるのかなと思います。
 少し、頼朝の話を考えたいのです。

2:頼朝の背景を考える。
 まずドラマ内で描かれている宮中・貴族と武家の階層について、おさらいします。
 土地を(主に暴力で)治める武家が居て、その領有権は都の有力者の支配下に入ることで正当化されている。
 武家は地域ごとに婚姻や「同じ釜の飯」的な共通体験を通じて地縁血縁の繋がりがあり、その繋がりを通じて争いが地域丸ごとの損害を出すことを防いでいる。
 一方貴族社会の方では血筋や慣習的な儀礼・作法を使い、権力のコミュニティに参加する人数を絞ることで特権階層となり権力を維持している。
 どっちも日常的に顔を合わせている関係を基盤に動いている。
 一応平安時代末期も律令国家ではあり、また位階を定める律令故に貴族と武家の階層構造もできているのではありますが、国家運営の形はかなり属人性の強いものでもあります。
 それで、平家は武力・財力の上に特権階層に食い込めるよう婚姻を使い、慣習を貴族のそれと合わせながら実質的な権力を奪った。
 この結果、都から遠く離れた板東では、支配者が貴族から平家に代わって平家方に付いた家だけが良くなったのだから源氏に乗り換えるし、それでも代わりがなさそうならもっと都合の良さそうな家にすげ替えようとなる。
 都は都で平家に権力を取られたので、平家が追い出された以上新たに朝廷政治を動かす中に武家勢力を受け入れまいとする。
 だがもう貴族だけで間接的に全国を統治できる時代には戻れない。限界がきているからこそ平家が台頭したのだから。勿論地縁血縁の持ちつ持たれつで調整できる範囲を超えた板東も、元の小ささには戻れない。
 かくして源平合戦は「この国の成り立ちを根こそぎ変えてしまった未曾有の戦乱」という初回最後のナレーションに表される事象となる。

 頼朝は、地縁血縁のない伊豆で、いつ殺されるかわからない不安定な身の上を囲う流人だった。
 誰にも心を許さず、読経と散歩の日々を送りながら過ごし、まずは八重に、伊東に追い出された後は政子に近づくことによって自分の保護を求めた。
 平家から源氏に乗り換え、ゆくゆくは板東の自主独立を考えている宗時と政子を通じて北条氏の支援を得、石橋山の敗戦を経て勝利を重ね、鎌倉に本拠を作り、流人から地位を回復されることで東国の政治を行うことに法皇の承認を得る。
 町を作り、血縁のある弟たちが寄り、増えてきた御家人の調停や都との事務連絡の為に京都から文官官僚を呼び政庁の仕組みが整っていく。
 頼朝の置かれた環境の変化を踏まえて、亀の前との関係がばれて声望を落としたり御家人の前で軽々しく「やっぱり身内が一番信用がおける」と言ってみたり、鎌倉入り後のトップとして軽率な行動を取る頼朝がどういう心境かと考えてみると「命の危機が緊急に迫る旗揚げ直後を抜け、周囲に人が増え物質的にも豊かになってきたので、気が弛んでいる」以外にないかと思います。
 それは増長でもあり、勿論まだ安定したとは言えない権力の過信でもあり、トップとしてはあるまじき姿ではあるのですが。
 人として当たり前の油断であるとも言える訳で。
 板東武者の気持ちが離れていくのも、頼朝の癇性や都人と板東人の優先順位や気質の違いだけではなく、頼朝という地縁血縁のない余所者としての珍しさが目減りして馴染んできた証拠でもある訳です。
 居ることに馴染んできて、この先のつき合いも長くなるなと思ってみれば欠点も目につくようになってくる。
 慣れてきたから、互いに対して油断もする。
 だから頼朝は御家人を甘く見て雑に扱い、御家人は頼朝を甘く見てクーデターの企てを起こす。
 この初期の緊張を抜けたからこそ現れる危機を、指摘して頼朝の態度を締めた人がいるとすれば、大江広元でしょうね。
 それはきっと政子が亀に「自覚を持って頑張らないと、御台所の地位は危ないぞ」と指摘されてシャンとするのと同じだと思う。
 言われて危機に気が付いて引き締めることができるのは、やはり非凡の証でしょう。

3:頼朝と広常の関係を考える。
 さて、頼朝と広常なのですが。
 板東制圧の戦をしていた頃は、広常は自分の待遇に不満を漏らしていた訳で。だからこそ「鎌倉殿」と呼ぶことを拒否し、結果として「皆武衛だ」のあの宴席がある訳でしょう。
 すっかり「俺の武衛」に惚れ込み入れあげ、尽くす広常はあの宴席だけで出来上がる筈がない。
 政子出産に際して比企能員と乳人を争って「何でもかんでも上総介という訳にはいかん」と釘を刺されていた頃より尚関係が深く見える。
 考えてみたら後妻打ちの裁定で舅の時政を怒らせ地元へ帰られた頼朝が、御家人の取りまとめについて時政の代わりに誰を頼るかと言えば、広常以外ないでしょう。
 任される領分が増えれば広常は信頼を得たと思って応える。
 広常に学問の素養はないけれど、その大立者に相応しい頭の良さとシンプルな人柄は頼朝の信任に足りたでしょう。
 義時の視点であるドラマ内で描写はなくとも、頼朝と広常の間はぐっと近くなっていたのではないか。
 そしてその親密さは頼朝にとって気の弛みと油断の時期の象徴になりうる。
 広元の指摘に改めて、自分と御家人の間をはっきり分けることで権力を固めようとした頼朝が、広常を切るのには必然性がある。
 一度親密になった広常を改めて疎遠にすると、信頼を失ったと判断した広常は今度は確実に離反するからです。
 距離を置くが信頼はしている、という関係性を把握するには形式の必要性を理解する素養が要るのですが、そんな広元レベルの素養を広常に求めるのは無理ですものね。
 自分が情実によって御家人を束ねていく道を諦めた以上、その為に近づけた広常を切らなければならない。
「この鎌倉に、死んでいい御家人とは誰か!申してみよ!」
 広常謀殺に反対する義時を一喝する頼朝の、ほんの少しの言葉の選択ににじむもの。
 あったでしょう、愛着は。
 それでも切らなきゃいけなかったでしょう。
 頼朝は、親の仇である平家を滅ぼす宿願がある。
 まさか義経が本物の大天才で、超短期間で壇ノ浦まで到達してしまうなんてわかりもしない。
 鎌倉殿、と地位はついても後ろ盾となる血族も、引き継いできた所領も基盤にできるものは何もないことに変わりはない。
 生き抜く為に、近寄りがたい冷徹な異邦人になる為に、強気で押し切る男に戻らねばならなかった。
 謀反の芽を摘み組織の権力構造を確定させるため、平家滅亡まで生き抜くため。
 自分を疑うことも無い広常を切った。

 これから3年の内に成すべき事。
 明神様の田んぼを作る。
 社も造る。
 流鏑馬も幾度もやる。
 これ全て鎌倉殿の大願成就と東国の泰平のため。

 全く惚れ込んだ男への情と希望に満ちた広常の願文を、唯一人心を許す盛長と絶対手放してはならぬ義時とだけ頼朝が共有するその意味。
 許せと言うことのないその意味。
 許されないことを承知の罪として人生に背負っていくなら、頼朝に広常以外の選択はなかったのだなと思いました。
 
 負うべき罪とその責任は、広常から奪った大願成就と東国の泰平をもたらす誓いで果たされる。
 その表に出せない誓いのため、「足固めの儀式」が頼朝第二の旗揚げとなるのでしょう。組織立ち上げの祭のような時期の終焉です。

 油断する平凡さと、断ち切れる非凡。
 冷酷になり切れぬ、信じ切れぬ揺らぎ。
 隠された本願の強さと、行動の軽率。
 あまりに深く、警戒故に表現のへたくそな情、それ故の孤独。
 複雑に構築された頼朝の人物像に、改めて「すげぇ」の感嘆しか出ないのです。
 頼朝は清くも正しくもなく、厄介だ。けれども今ドラマの物語を牽引しているのは間違いなく頼朝の複雑な面白さだと思います。

 頼朝が気を弛めた油断の時期に近づけてしまったのは、何も広常だけではない。身内だということに浮かれて受け入れてしまった弟たちが家の中にいるという不穏。
 幼い嫡男万寿は体が弱い。
 No.2を排して組織が安定するのは、No.1の揺るぎない後継を育てきったときだけだ。横並びで同じ条件である筈の朋輩が、昇進して自分の上に立つことを認められる人間は多くない。
 力で押さえつけてしまった謀反は面従腹背の姿勢に潜り、密告讒言の温床になりかねず、担ぎ出せそうな冠者殿は一人じゃない。
 泰平、安定にほど遠い次の不穏の種は既にある。

 そして全く気づかぬまま広常謀殺の片棒を担がされた義時が、出せぬ本心を打ち明ける先を義村に求める姿を「頼朝に似てきた」と評される。
 また、頼朝が東国の絶対権力者「鎌倉殿」になった以上務められなくなった相談窓口を政子が務め始める。
 この「第二の頼朝旗揚げ」である「足固めの儀式」の話に、後の執権義時と尼将軍政子へのステップアップ、更に次世代泰時の誕生が合わせて描写されていることに頼朝死後への布石を感じます。

 時代のうねりは止まることなく、それでもその怒濤の中に「次」の形が生まれてくる。
 とんでもないなあ、と思うのです。