「リチャード三世」感想文(ネタバレ/脚本と演出のこと)2017/11/01

 くどいようですがもう少し。
 底本である木下順二訳「リチャード三世」(岩波文庫)を手に入れ、台本とするのにカットした部分が7割と聞きました。パンフレットもしつこく読み返しました。そうすると1回目の全体の概要で書いた話にもう少し捕捉で書きたいことができまして。
 舞台の演出と脚本について。

 今回のプルカレーテ版において「リチャード三世」は戯曲「リチャード三世」から「あるリチャードのおはなし」に絞ったのだろうな、という考えは既に申しました。イギリスの歴史という要素を除いて、イギリス以外の土地に住む人間にも自分に縁ある話と受け取れるよう細かく取捨選択して再構築したのだろうと。
 パンフレットのプルカレーテ氏のコメントから言えば「人間の本性に潜む狂気」ですね。
 狂気はどういう形をとって表されるのかというと、それはリチャードの謀略であり、マーガレットの呪いであり、そしてリチャードの犠牲者による逆襲としての悪夢であり、リチャードを孤独に追いやってきた人(リチャード本人を含めて)の残酷さだと考えます。
 底本をシナリオにするに当たって行われた、台詞ひとつひとつの中にまで及ぶカットが繊細で丁寧にされたものだということは劇の流れに引っ掛かりがないことでわかります。
 でも残存3割です。日本酒の原料米を削った後の白い粒、あれだけ見て咄嗟に米だとわかりますか。損耗率7割となってまともに動くものや組織がありますか。話だって本来そのはずです。
 演出の本旨に沿い、かつ「リチャード三世」としての景色を失わない為に演出で逆に強化した部分があるだろうなと考えました。

 まず、舞台美術。
 天井まで届くスクリーンに映し出される石またはコンクリートの映像。色々な壁に見立てられていましたけれど、いずれも閉鎖的な空間であるのは間違いないですよね。物理的に狭く、そして人間関係としてもごく狭いところの物語だと感じることができました。
 それに登場人物も削って、役も兼務したり或は別の役に置き換えていたりもしてあります。余計に狭い。
 オールメールだとやはり同質のもので揃えられた統一感がありますし、そこに一人だけ男装女子の「代書人」が加わることで境界線というか枠のようなものが見えて来ます。男女混成の親近感とも、男子のみ、女子のみの舞台にある単一性のフォーマット故の自由な空気とも違うんですね。
 ひたすらの、枠の強化。
 狭く近い関係だからこそ発生する暴力的なマウンティングの連想が働きます。

 そして、もうひとつ強めたところが「呪い」かなと。
 木下訳の特徴として、音として聞く響きのよさがあります。
 台詞としては柔らかく、詩文としては美しい。
 つまり、呪いの言葉も美しく印象的です。そしてマーガレットの呪いは陥れられ破滅していく人の姿を糸のように繋いでいきます。
 彼女の吐いた呪いに、破滅の姿が対応していると印象は強くなりますね。処刑されていく人々がマーガレットの呪いを思い出し嘆き叫ぶシーンの後ろにはマーガレットが無言で登場する。それがまた印象を強くします。
 ところで彼女がリチャードに向けた呪いの一節はこうです。
「生きてある限り味方を裏切者と疑い続け、最悪の裏切者を最良の友と信じ続けろ」
 味方で友。
 リチャードの。
 底本の中でリチャードが親密な友と言えるような、少なくとも親密な友の立場に置いておかしくもないような相手を探すと、それは確かにバッキンガム公しかいないんですね。
 色々な相手に対して偽りの親密さを演出するリチャードですが、確かに一番一緒に行動していてかつ本人の居ないところで陰口言っている時も評価が高いのはバッキンガムなんです。
「おれの分身、おれの枢密院だあんたは。おれの神託、予言者、本当の身内だ。子供のようにおれはあんたの指図に従うよ」
「永いあいだ疲れもせずにおれと歩いて来てくれたが、ここらで一息入れたいというのか?」
 こうした台詞からすれば、確かに訣別までのバッキンガムはリチャードの友というか腹心、ある種の相棒と言えるんです。
 いざ王座についた途端にそこを奪われる可能性に怯え始めるリチャードは一種のパニック状態にありますから、相棒なのにわかってくれないし助けてもくれないというのは十分冷たい仕打ちで、そこにバッキンガムの裏切りを見るんですよね。
 そしてリチャードのパニックに「エドワードとヨークを殺せ」という命令で巻き込まれるバッキンガムは、その命令を受けた自分の苦悩にリチャードが報酬という形できちんと向き合ってくれないことにも、自分以外の男にその秘すべき難題をあっさり頼ったことにも傷付く訳で。
 処刑されるバッキンガムが自分の手を握るリチャードに気付いて抵抗せず死んでいくのは、それが明らかな特別扱いだとわかるからで、おそらくは自分の死に傷心するリチャードの想像までつくからですね。
「最悪の裏切者を最良の友として信じ」ているのではないかというリチャードの疑いが、バッキンガムの死と同時に「味方を裏切者と思い続け」ていた後悔に転じる鮮やかな呪い。
 この「友」を喪うという演出を入れることでマーガレットの呪いと事態を整合させ、かつそれをリチャードの致命的なダメージとして孤独と狂気、その先の絶望へという理解の流れを繋ぐ。
 呪いという、それそのものが既に狂気を帯びたものを支えに「リチャード三世」としての枠を崩さず「人間の本性に潜む狂気」を描く演出かと思うと、ため息しか出ません。
 3割の台詞でシナリオを成立させる演出のコントロール、何て職人芸。面白かった。

 それにそれぞれの登場人物について、細かいところは役者さんに合わせて作ったんだろうなと。
 酷薄な裏に陽気で繊細なところのあるリチャードは佐々木蔵之介でなければならなかったでしょうし、物語を繋ぐ糸・強く優美なマーガレットは今井朋彦ならではであり、器用で素軽く可愛いバッキンガムは山中崇のなせる業でしょう。勿論他の役と役者さんについても。
 役者さんそれぞれの技量と身体能力に合わせて、最大限できることのオーダーが入っているように見えます。細密。

 一方、私浅学にして見たことがないのですけれど普通の「リチャード三世」は今回ばっさりカットされたリチャード戦死のシーンを盛大に盛り上げるのが定石なんですね?王位を得た果てに望むのが一頭の馬、という皮肉な末路。他の人の感想など見ているとそこが物足りないという方も結構おられる訳で。
 絶望したところで道化として死ぬリチャードは今回の演出の本旨に合っているというか、私はあの上戦死までやったら却って焦点がぼけると思うのです。けど自分が神々しいまでのリチャード戦死を別の舞台で見ていても、やはりそう言えるかと言われるとなぁ……。
 ただ、悪の主人公がむごたらしく死ぬシーンを求める観客心理というのも、当然演出の想定内でありましょう。
 銃型のライターを本当の銃に変えるのは観客の意志かもしれないと考えると、見ている誰の本性にも潜む狂気をユーモアと優しさに包んだ演出で見せてもらったのだなと思うのです。
 誰しも狂気を抱えていて、狂気を抱えているのは自分だけではない。
 狂気というグロテスクさは、同時に自覚すれば人に優しくも自分に前向きにもなれるように思うのです。
 善をも愛することができるのだから、いわんや悪を於いてをや。
 訳者の視点が入った翻訳、イギリス人でない役者、イギリス人でない演出家の作る、純粋ではないからこそできる「リチャードのおはなし」の精髄。

 見に行けたのは幸いだったなぁと、考える度に思うのです。

「リチャード三世」感想文(ネタバレ/衣装や仕草のこと)2017/10/21

 さて、1記事目で全体の概観、2記事目でマーガレットについて、と来まして3記事目。
 今度は衣装と外見で表現されるキャラクターの内面についてもすごかった、という話をいたします。
 パンフレットと記憶が頼りなので、間違いも多いと思いますが大目に見て頂けるとうれしいです。

 まず、女性陣。
 アンの、黒い喪服のマントをリチャードが剥ぐと下はミニのワンピースで肩と腕が丸出しになる。
 マントの下へ潜るリチャードも中々見てはいけないものを感じさせましたが、視覚でわかる籠絡ぶりでした。
 うん、アンは悪くない……確かにまだ若いんですよ、子供がいない位だし夫エドワードの若さも強調されている。参考程度に史実上の年を言うと16才です。それで夫は死に義父も死に、義母は国外追放。自分も実家もこの先どうなるかわからんままに、喪主をやってるんです。多分参列者も多くない。寂しく辛い、それでいて責任の重い役割です。後は任せて俺のもんになれよぅというリチャードにころっと甘えてしまう彼女は、愚かではあるけど責められまい。
 そして鬱々とした再婚生活の果ての即位。嘆くドレスは黒のイブニング。そして黒のマントを被せられることで黙殺されたことがわかり、その後沈黙の内に引きずって行かれ、死ぬ。
 このマントを被せられた後の全く動かない彼女の「物体」の説得力がすごいのですね。生きながらに既にして骸という。
 その喪服だったり「物体」だったりした彼女のイメージが強いので、リチャードの悪夢に現れ歌い踊るアンの真っ赤なイブニングがこれまた鮮烈。若く華やかで活気に溢れるそれが本来の彼女、という美しさの後で思うと彼女の奪われたものの大きさがわかる気がするんですね。
 そしてエリザベス。
 長くプリーツもたっぷりした灰色のドレスの裾の美しさ。この裾さばきの美しさはハイヒールの扱い同様に賞賛されてしかるべき。色はかつてのグレイ卿夫人でもあるからか。スキンヘッドに冠がよく目立ち、手には黒い扇。そしてエドワード四世の枕頭へ行く時は紫の、ボリュームの減った裾、小さくなった扇。その後の喪服、子供たちを弔う彼女は既に扇も手にしない。奪われる過程の現れですね。
 ヨーク公爵夫人の、顔の見えないベールと装飾的な造形のドレス、色は黒。
 これは奇抜に作ったというよりは時代物の雰囲気があって、かつ無彩色。二階席からは影のようにしか見えませんでした。壤晴彦さんの朗々と響くバリトン(大蔵流の修業をされた方でもあるんですね、謡のようでもありました)でのみ個性が表れる、重厚だけど事態に何の影響ももたらし得ない人の哀しみがあります。
 で、マーガレット。
 オーバーサイズの男物のコート。どう考えても彼女に合わせて作った物ではない誰かの古着であるその下がランジェリードレス。ぼさつく白髪混じりの頭と合わせて、思うところは「困窮」の二文字です。その中で足下だけはきりっとしたハイヒール。そこに誇りがあるように見えますね。そして体が中で泳ぐ程大きなコートはマントと同様の優美さで動き、男仕立てであるシルエットは性差を曖昧にし、そこに彼女の異能と強さが現れる二重の仕掛け。杖は老女を表す小道具であると同時に魔女の杖でもある。
 冷ややかな声であのヒキガエル、と杖で指し示されたい人はおらんか。何度思い出しても強さしかない。

 髪型や裏声で殊更に女を作らないけれど、仕草は皆エレガントに女というあの不思議な色気。
 そして唯一の女性キャストであり男性を演じる「代書人」の渡辺美佐子さんに感じる空気はその逆の手法で作った物ですね。
 男装にヒゲ、女性が男性を演じるときの所謂ヅカっぽい声。
 男性しかいない舞台に上がると、はっきり「周りと違うもの」を感じさせます。
 原作ではヘイスティングズ卿の罪のでっち上げを皮肉混じりに嘆く「公証人」でしかない役目ですが、本舞台ではその役の他に拵えからシェイクスピアの見做しを兼ね(そう言えばシェイクスピア女性説なんてものもありましたね)、そして幕を引く役割から言えばリッチモンド伯も兼ねるのでは無いかという見方もできます(この読み方をしたさんぱさんはさすがだなと。確かに劇場で配られる人物相関図には写真部分を「?」にしたリッチモンドが存在している)。
 舞台の中の空間と別の位相の者が入っている、という位置なのだと思いました。
 
 そして勿論リチャードの衣装を語らねばなりますまい。
 何しろ変わる変わる。白シャツの前を開けておどけてポーズを取り道化の小道具で遊ぶ冒頭部、せむしでびっこ、という所謂リチャード三世の特徴として上げられる拵えがまた強調の具合が数段階。
 物語の序盤やる気に満ち満ちた頃のリチャードは、だまくらかしに行く時に相手や場に合わせて服にも凝るんですね。そして油断を誘いたい相手の前では殊更に背を曲げ、足を引きずり、その為の変わった杖まで持つ訳です。
 一番美しい服を着て、かつ一番ひどく体を丸めているのはエドワード王の御前だったですかね……。甥である幼い王子兄弟を迎える時も衣装は同じでしたっけ、黒の毛皮の襟のついたコート。
 そう言えば、リチャードが最初にものをガツガツ食べるのは幼い兄弟を迎えるときが最初でしたっけ。
 あの食べる描写は緊張というかストレスの緩和だろう、と思うのです。
 食べている時にリチャードは人と目を合わせませんし、笑顔にもなりません。
 あの兄弟に接するのは、怖いんですね。その一番に王位簒奪がかかっていることはわかっていますし、皇太子エドワードは聡明です。幼いので理屈が素直で、現実的な利益で釣るのも難しい。ヨーク公はあほの子(衣装でよく表したものだと思いました飾り襟に裸サスペンダーの半ズボン…)とは言え、武器を欲しがったりふざけ半分に殺されかねない物騒さもある。
 子供相手にものをわかりやすく言おうと思えば嘘もばれやすくなりますし、それにやっぱり子供をだましたり脅したりはどこか後ろめたさが勝つんでしょうね。
 天性冷血で残虐なリチャード、というより小心者でどこかお調子者で、途中で留まることのできない弱さのあるリチャードに描かれていたように思います。
 殺すのを厭わないというより「殺せ」と言うのを厭わない男なんですよね。
 明るみにされたくない、というのもあるけれど自分ではやりたくない、というこの甘さ。
 今回の舞台で描かれるのは、子供の視線に耐えきれずに手土産の菓子を貪り食い、眠れぬ夜を過ごして会議で居眠りをし、腹を壊して中座するリチャードです。
 自分の即位に根回しをしておきながら、ベイナード城で側近と飲んだくれて気難しく黙っているリチャードです。
 そんなリチャードは王位簒奪の野望の達成に近付くにつれ、段々薄着になっていく。「せむしでびっこ」もやらなくなる。
 気の小ささや意外な打たれ弱さを隠しきれなくなってくるんですね。
 革パン一枚でビニールシートの掛かった玉座と睦み合う、あのシーン。
 野望の達成の喜びの筈なのに、表情は恍惚というよりむしろ当惑と放心に変わっていく。
 ビニールシートの中に潜り込み、目を見開き口を半開きにした異様な表情で玉座の上に丸まるリチャードは、苦しそうに見えました。
 今まで玉座を見上げてきた側だった自分の視線と意識が、今度は自身に注がれる様を幻に見ているようでもありました。
 逃げ出したい繭の中か、それとも蜘蛛の巣に掛かった獲物か。劇の冒頭ビニールを被せてぐるぐる巻きにして連れ去られるクラレンスを思い出させる素材でもあり。
 何者かが死んでいく様を見た、と思いました。
 このシーンのグロテスクと美しさは、今の佐々木蔵之介以外で出せないだろうな、と思いました。

 それ以降、リチャードは人と目を合わせて喋らなくなり、ひっきりなしに何か口にするようになり、余裕を繕う表情も消える。
 幼い兄弟の存在に怯え、バッキンガムに逃げられ、雑にエリザベスを丸め込んでいる間に反乱の蜂起が始まる。
 その間マントのように羽織り続けたビニールで、リチャードはバッキンガムを殺す。
 そして悪夢。
 あの賑やかで華やかな場を悪夢だと言うならば、居たかった場所に受け入れてもらえなかったこと以外に無いのではないか。
 王座を欲したのは周囲の耳目を集め、目立ち、愛して構ってもらいたい、道化になりたい一心からか。
 賑やかな宴の中を引き回され、笑顔で拒まれ、放り出される。
 馬を寄越せ、傷を縛れと叫んで目覚める程の夢。
 道化となると宣言して喝采を浴びる劇冒頭との対比。

 狡く、せこく、それでいて寂しく切ないリチャードでした。
 リチャードもそれを囲む人々も、たった3時間足らずの間に美術や衣装、音響、役者の体、全てを利用して濃厚に描写された舞台でした。
 すごいもん見たんだなぁ。

「リチャード三世」感想文(ネタバレ/マーガレットのこと)2017/10/20

 10月17日東京国立劇場、プルカレーテ演出「リチャード三世」プレビュー公演を見てきました。 感想文続編です。

 さて、まずはマーガレット。
 ちくま文庫版「リチャード三世(松岡和子訳)」で読んだ時から「あ、これすごく大事でかっこいい役だ」と思っていた人でした。
 ヨーク家に殺されたランカスター家のヘンリー六世の妃であり、夫と息子を殺されて国外追放になった後、復讐の呪いの為に舞い戻ってくるのが「リチャード三世」におけるマーガレットの立ち位置です。
 理屈と損得を武器に、陰謀謀略の限りを尽くして王位取得に邁進する若い男のリチャードに、権力を奪われ踏みにじられた者の恨みと情念を呪いの形に練り上げて対峙する老女がマーガレット。
 対称に作られた人物であり、彼女の呪いに屈するかのように破滅していく過程を見ればむしろライバルとしての立ち位置です。
 実際にリチャードを倒し、新しくチューダー家の王朝として王権を継承していくリッチモンド伯(今回未出)は、言ってみれば既に精神的に死んだリチャードの体に止めを刺す役に過ぎないので最後だけのヒーローなんですよね。

 物語を通してリチャードの前に立ち続けているのは結局マーガレットである、と思いました。

 呪うしか無い、というのは本当に当時の女の生き辛さですね。
 原則私有財産が無い。当然財産処分権も無い。
 生まれては父に、嫁しては夫に、そして息子に従う。男の許可無しには買い物も出来ない、家に客も呼べない、それが当時の女だと言われると、物理的な復讐に身を投じるのは困難でしょう。
 財力上も、社会的にまともな取引の相手と遇されない地位から言っても、自ら剣を取るのも一服盛る為の毒を調達するのも、ごく身近に意を同じくする男がいない限り不可能な訳です。
 だから女の戦いは「呪う」しかない訳です。
 しかもこっそり黒魔法の呪法を行うとか、そういう超自然の話ではなく、当人を罵り精神的に著しく傷つけることで間接的に死に追いやる中々現実的な「呪い」。
 ただの恨み嘆き怒りだけでは心の傷を与えるに至らないのは、マーガレット以外の女達を見ていても明らかです。
 まず、嘆きと怒りを持続させるのが難しい。
 リチャードが強いのは、女達にはとりあえずひとしきり昂るままに言わせておき、息切れして我に返った瞬間に逆襲してくるところです。
 女にとって夫や息子を奪われるというのは、感情としても辛いことですが将来の生活不安とも密接に繋がっています。
 ふっと昂りが切れたところで、リチャードは将来の生活や地位の保証を切り出して、怒りを捨てさせる。そのカードが使えない自分の母には徹底的に無視し侮ることで気力が尽きるのを待つ訳です。
 この手が通じないのがマーガレット。
 心理操作の名手リチャードをして、切れ目無く続く罵倒と怨嗟の言葉に割り込んで対象をすり替えようとする、周囲を何とか巻き込む位しかできないという、これがマーガレットの「呪い」の怖さですね。
 夜は眠りを断ち、昼は食事を断ち、苦痛を敵を憎む気持ちに変換する。
 奪われたものは実際より良く美しく愛しかったと、相手は実際より醜く憎く悪いものだと、意図的にすり替える。
 それが彼女の言う呪いの方法ですが、要するに大変理知的に、計画的に、狂女になったのですね。
 ひたすら呪う以外のことを放棄する生活になりますから「昼は食事を断ち」どころかまともに食事が取れているのか正直疑問です。
 今回のプルカレーテ版では「近寄るとくさい」と演出されていますが、それもそうでしょうね……。
 生活していないんですよ。
 これが裏を返せば実利で翻意させられない、言い訳も通じない、彼女の強さになるのですが。
 人であることを止めているんですよね。
 城内でも砦でも神出鬼没な様子を思えば、実際生きているのかも疑わしい。
 日本の古典芸能としてもお馴染みの、鬼女であり狂女であると思いました。
 強く、怖く、そして同時に哀しい女。

 そして今回の舞台ですが、大変見事なマーガレットでした。
 狂女でありながら上品であり、動きは優美。呪いは強く或は囁くように、謡うように。
 処刑台に送られていくリチャードの側近が彼女の名を口にするところで、無言で舞台に登場しては消えていく。どこか能のようでした。
 無言でも舞台の上での動きのリズムが違うから、出てくるだけで目を引くんです。
 リチャードによる犠牲者が歌い踊る悪夢のシーン、指揮するように舞台を回る彼女のコートの裾がゆらりゆらりと円を描く。
 軽やかで美しいマーガレットでした。

 リチャードの死はマーガレットの呪いの成就であると共に目的の喪失でもある。
 美しくも哀しい宿命、鬼には未来が無い。
 そう思わせてくれる彼女は最高にかっこよかったと思うのです。

「リチャード三世」感想文(ネタバレ)2017/10/19

 10月17日東京国立劇場、プルカレーテ演出「リチャード三世」プレビュー公演を見てきました。

 付け焼き刃に近い速度でちくま文庫版「リチャード三世(松岡和子訳)」を読み、読み切ったシェイクスピアは「真夏の夜の夢」とこれだけ。舞台で見るのは初めて、というのが鑑賞時の私のスペックです。
 よって「斬新」と言われても比較対象が自分の中に無いという、誠に心許ない状況なのですが。
「斬新」は斬新なんでしょうけど、単に奇抜だとか目新しい、と言う意味ではないのだと思います。
「リチャード三世」という話で大事なのはどの要素なのか、その要素はどう表現するのが一番見る人に訴えることができるのか、徹底した分析と検討と試行錯誤によって再構築されたものなのだと感じました。

 観劇した後で文庫版の「リチャード三世」を見ると切り捨てられた場面の多さ、そして台詞の長さや冗長さをずっしりと感じます。
 それだけ中味を削って、しかも理由なく削られたものは一切無いことが伝わるすごさ。
 削るだけでは話が繋がるはずもなく、それでも舞台上で問題なく話は進む。
 つまりその断片を繋ぐのが演出であり、無言の内に行われる演技であり、「斬新」と感じさせる所以なのだろうと思います。
 新しく作った台詞を入れない、というのは本当になるほどなぁ、と感心するところで、サックスの音が鳴ろうがチェーンソーが持ち出されようが服装が現代的であろうが、あの装飾的で古典的な台詞がある限り絶対に「リチャード三世」としての枠から外れない。
 枠がしっかりしているからこそ、大胆な再構築が「型無し」にならず「型破り」になるのですね。
 改めてシェイクスピアの書く戯曲の筋の強固さと台詞の強さを知りました。
 一度も上演に使われたことが無いという木下順二訳を使ったのは、言葉の美しさだけでなく上演されたところを「誰も見たことが無い」ことも大きかったのでは。
 あの時の上演ではこうだった、という連想が働くのを極力排除したかったのではないかな、と「斬新」「革新的」と文字の踊るレビュー記事を見ながら思うのです。
 繊細で慎重、かつ真剣な遊びを見せてもらったのだと。

 ひと言で表すならば。
 自分に責任の無い孤独の内に生まれ、自分の責任で陥った孤独の内に死ぬ、哀しい道化のような男の物語でした。

 冒頭、まだ役とも役でない人格ともつかぬ白い衣装の人々の、よくわからない下卑たどんちゃん騒ぎの中で始まるリチャードの独白から悪ふざけのようなクラレンスの連行、ヘイスティングズの釈放までのあの一連の場は、正直呆気に取られるところがありました。
 でも「戦後の浮ついて華やか、しかしひどく軽薄な時代」とそこに乗り切れずに「思い切って悪党になる」リチャードの独白とを表すなら、あれで、いいんだなと。
 エキストラではなくその後の物語のキャストである役者を場に配し、言わば背景である無名の人物と役としての人物とを台詞を使って出入りさせ、台詞中に名前だけ登場する人物もその都度後々その役を演じる役者を示すことで流れを切らずに説明をつける。
 その後の、全く物語の世界であるヘンリー6世の葬列へと続く流れは思いの外スムーズでした。
 国外追放中のマーガレットが参列している訳はないのですが「マーガレット様が見ておいでだ」と言う後ろでマーガレット役の今井さんがすっと手を挙げる。あれだけで死体としてしか出て来ないヘンリー6世がマーガレットの夫であると、言ってみれば生身の存在を印象づけるのに十分でした。
 ヘンリー6世の生身があると、マーガレットの恨みに説得力が出ますね。

 リチャードは沢山の人を殺させますが、殺害後に死体として登場して見る者に強烈なインパクトを与えるのは、このヘンリー6世、そして最初に殺されたクラレンス、そしてエドワードとヨーク公という幼い兄弟に絞られます。
 クラレンスは最初の犠牲者であると共に、後の悪夢で再登場するときに「誰だっけ」にならないだけのインパクトが必要です。
 そして幼い兄弟の死は王位奪取の栄光から破滅への転落に変わる分水嶺の事件ですから、勿論強調する必要があります。
 その一方で単なるチェーンソーの音、重々しい扉が閉まる音で済まされてしまう死は、その軽さ故の存在感が出ます。
 この、メリハリの付け方がまたかっこよかったと。

 そして、もうひとつ印象強い死の場面がバッキンガムでした。
 リチャードは謀略の対象は殺させるだけで、自分はその場にいないんですよね。
「会っては下さらんのか」
 というバッキンガムの台詞の通りとすれば、原作でもその場にリチャードが居る筈がない。
 ただ、舞台の上でリチャードは黙したまま目隠しをされたバッキンガムの手を取り、そして明らかにバッキンガムはそれに気付き、そのまま殺されていく訳です。
 台詞の無い部分で解釈を入れることは十分可能なのだな、と。
 あれだけで、酷使された哀れな手駒の一人でしかなかったバッキンガムが、リチャードにとっては口には出さずとも最も信頼して甘えることのできた相手に格上げです。
 それだけに報酬の精算、つまり関係の清算を求めること、そしてそれを拒まれたことはお互い許せない裏切りであったのだと。
 バッキンガムの処刑後、リチャードは完全に一人になります。
 ずっと一緒に居る側近のラトクリフとケイツビーの声すら観客には聞こえなくなります。
 信頼できる者の無い、孤独の内に狂気を発していくリチャード。
 バッキンガムの手だけは離してはいけなかった、その為にも幼い兄弟は殺すべきでなかった、この話の流れの美しさに震えがきます。
 そして犠牲者の歌い踊る華やかな悪夢、続いて終劇。
 リッチモンドはチューダー朝の建国神話を語るつもりが無ければ、確かに出なくてもいいんです。
 浮ついたパーティーの中から浮き出す道化として舞台に登場したリチャードは、華やかな犠牲者一同の歌い踊る夢から「この世に望みを絶って死ね」と蹴り出されて退場するのが相応しい。
 無言で渡されるピストル型のライター、一服の煙草、道化の鼻。
 幕の下り切る寸前に、こめかみに銃を当てるリチャードの姿。
 そして銃声。

 愛されず、愛されたことに気付かず、自ら愛さず、それでいてそれを渇望する男の話の見事な再構築だったと思います。

 マーガレットについてはまた別途。

読書感想文:「ニホンオオカミは消えたか?」(宗像充/旬報社)2017/05/17

 日本一有名な絶滅種、そして生存のニュースと否定のニュースが繰り返されるニホンオオカミ。
 しかしどちらかというと生存と絶滅の話に左右されがちなその種の「そもそもニホンオオカミとは」という話に読み応えがありました

 ニホンオオカミの同定に使われるタイプ標本はシーボルトの採集によるものです。
 しかしシーボルトが本国に送った標本は「オオカミ」と「ヤマイヌ」のはずだった。それが何故か一種類として登録され(書中では分類と登録を行った学者との確執が原因と考えられている)、そして生態を調査する前に「絶滅」とされてしまった為に、改めて生態を調べる学問的な研究の対象外となり、最初の分類を再評価する機会が無く今日まで来ている、という。
 つまり同定の基礎となる「タイプ標本」自体が「タイプ標本」として機能できるのか。という話は凄みがある。
 思えばリンネによる生物分類の基礎(1735)動物命名法の基準(1758)から100年に満たないシーボルト来日(1823)。「種の起原」(1859)さえ発表されていない、「新種の採集」に情熱を傾けていた時代。
 系統だった西洋式生物学の素養の無い土地で、ろくなフィールドワークも無いまま採集した数少ない標本を、現地に行ったことも無い学者が経験と知識で分類していた訳だから、不備があってもおかしくはない訳ですよね……。

 そして絶滅が宣言されたときから、その存在は宝探しの対象になり、生態研究の専門家からは無視される。調査は在野の研究家によることになるけれどアマチュアの限界もある、組織だった研究には中々結びつかない。
「いるわけないだろう」が先に立つ怖さともどかしさ。
 その辺がとても面白く思えたのだけれど、あと一歩欲しいな……と思う所。

「いるわけがないだろう」が一向に改善されていかない、再考されないところを「オオカミ再導入派の政治的利益」に持っていくのは正直イマイチ。再導入論が盛り上がる前にも「いるわけないだろう」のままでいた原因にはならないのではないかしら。
「ニホンオオカミの生存と正体」というテーマと「再導入批判」は分けた方が、論点がぼやけないでいいんじゃないかな……と。
 おそらくニホンオオカミの調査をしている人の中で、今一番ホットな話題が「再導入けしからん」なのではないかと思うのです。その中に身を置いている以上当然のこととして取り上げたのでしょうが、既にそれ自体が詰めの甘いところでは。
 意見の対立を取り上げるなら、本来双方に対しての取材が要る。取材はゼロではさすがにない。でも読んだ印象がどうにも「再導入派の奴ら気に食わねぇ」の域から抜けていないのは、取材が不足しているからだと考えます。
 同様に、証明の為の知識が足りてないところに来ると、取材対象の人格の話で補いにかかる気配があります。「おれ専門家じゃないからよくわかんないけど、この人が言うんだからあってると思います」まであと一歩というところか。
 取材対象に近過ぎて、客観的な評価をしようという意識が薄いんだと思うのです。
 信頼を得るまでつきあい、かつ素直なのはいいけれど、ちょっと甘い。
 社会問題として取り上げるなら尚のこと甘い。略歴から見れば本来そっちが専門でしょうに。
 向こうの取材に行けばこちらの信頼を無くす、という話であれば、それこそ「大事な話だと思うのに社会的に信頼してもらえない」原因のひとつでしょうが。

 ニホンオオカミの生存と正体、それが「よくわからない」という他無い程研究が進んでいない、そこを伝えるルポタージュとしては良作です。ジャーナリズムとしては並の域は出ない、かな……。
 再導入については私「そんな都合良く進む訳あるかヴォケ海外成功例の地理的条件考えんかい」の立場ですけどね。
 調べる、伝える、難しさを感じます。