「鎌倉殿の13人」:善児について考える2022/08/31

1:キリングマシーンの死について
 善児。
 史実にモデルのないオリジナルキャラクターであり、1話で頼朝と八重の子千鶴丸を川に沈めて以来、主の命に応えて現実離れした動きと殺陣とで数々の暗殺及び不審死を鮮やかに彩ってきた。
 32回、33回と頼家の強制引退から暗殺までの道のりとそれに伴う義時の変化と合わせるように、善児の衰えと死が導かれてきた。
 善児は感情のない声でものを言う、無情のキリングマシーンであり、モデルがないこともあって人物というより物語の装置のように扱われていた。
 子供だろうと前の主だろうと躊躇いなく手に掛ける、命令を断らない男。
 その初めての抗命が頼家の嫡男、一幡の暗殺である。
 できぬという理由が「あの子はわしのことを好いている」という感情である衝撃。
 それ以来人らしい感情の振れ幅を見せてきた善児は、頼家暗殺の現場で見た「一幡」の文字に動揺して致命傷を負い、その場を逃れた後でトウに親の仇としてとどめを刺される。
 運命の子供となった一幡、そしてトウの抱える複雑な思いを絡めつつ、改めて善児の最期を考えたい。

2:善児について考える
 まず、最期に向けての変化を見せる前の善児がどういう男であったかを考えましょう。
 人を殺すことに忌避感があるかというと、おそらく無い。
 しかし殺すことに何か嗜好性があるかというと、それもない。
 現代より簡単に人が死ぬ、死が身近である社会を舞台として描いていることは勿論前提にある。
 ことに、善児が仕えているのは「ナメられたら殺す」「勝つためには何でもする」腕力と地縁血縁で所領を治める板東武士である。
 そして考えていただきたい。
 この腕力が全てという社会の権力者、日頃武力が自慢の武者が、子供や血縁といった社会的・心情的理由で殺せない相手。それを自分が殺せる場合。
 それは秘かな優位にはならないか。
 日頃強さを誇示し、身分も財力も自分より上の武士が、できない事をできる。形は命令であっても、自分が頼まれる側です。弱みを握ることでもある。
 そこには一種の立場の逆転がある。
 元は農民、とだけ触れられる善児が下人奉公に出た事情はわからない。小作人の子なのか、次子以降で田畑の相続権がなかったのか、とにかく自分の力にできる背後を何も持ち合わせていないのは想像できる。
 武士ですら躊躇う種の殺人ができる人間は、当然仲間からも距離を置かれるでしょう。それでも困ることがない、コミュニティ最下層の弱者であったと推定できます。
 それが、暗殺の件に限っては「いないと困る」立場に回ることができる。自尊心の拠り所となってもおかしくないのではなかろうか。
 武士だ主だと偉そうなことを言っていて、下人である自分ができることが彼らはできないのですからね。
 相手を出し抜いて殺す、暗殺の仕事。
 油断した隙の失言を拾う諜報。
 善児の仕事は能力で相手を超え、身分を飛び越して刹那の立場を逆転させることができます。
 屈折はしていても、ひとり誇りを持つには十分でしょう。

「できる」事が誇りの源泉だとすれば「さすがに年を取りました」という理由で弟子を養成する準備の良さも頷けます。
 目標を仕止め損ねた、という失敗は「できる」事から得られる優位の全てを失うことですから。
 失敗すれば下人という立場に輪を掛けて蔑まれる。耐えられない屈辱でしょう。
 トウを拾ったのは範頼暗殺のとき。自分が孤児にした子供をはっきり弟子にする意図を持って連れ去ったのですから、その前から考えていたことになります。
 範頼と居合わせたトウの両親五藤太夫妻を、気づかれる隙もなく一瞬の内に殺す善児の様子に衰えは見えない。
 その段階で近い内の自分の衰えを認め、対策として弟子を育てることのできる善児の客観性と計画性。
 この一事が示すのは善児の有能さだけではなく、任務完遂への強いこだわりです。
「できない」事が恥だと言い換えてもいい。
 自分の体の限界を直視できないのも、その対策が打てないのも恥なのです。
 自分が突いてきた他人の隙、体面や愛憎を含めた執着、しがらみ、その一切を排除することも含めて善児の磨いてきた技術であり、誇りと言えるでしょう。
 有能であり、強者である為のストイックと非人間性。
 軽く速く華やかでさえある非現実的な、その仕事を支える善児の人となりは同じく実現の難しそうなハイレベルの自己管理と客観性です。

 次に考えるのは、そのハイレベルの限界となる例外例。
「一幡」という運命の作用です。

3:運命の子、一幡
 頼家の子、比企一族の子。
 比企を滅ぼした以上は北条の存続の為生かしておけない悲運の子。
 この子の殺害を躊躇い、先延ばしにした短い期間の後である。
 前述の通り「できる」ことが誇りで「できない」ことが恥である善児が「できねえ」と殺害を拒む。
 しかも「あの子はわしのことを好いてくれている」という理由。
 それは義時も言うでしょう「らしくないことを申すな」と。
「千鶴丸と何が違う」、もっともです。
 一幡が善児にもたらした緩みは何だったのか。

 一幡は、泰時の命によって善児のところへ一時的に預かられた幼児です。
 不要なものを排除した生活を送る善児の家に、実用的なことはまだ何もできない上流社会の幼児。手習いだって自分の名前程度ですよ。
 その存在自体が善児にとっては非日常でしょう。
 殺さなくていい、むしろ事故があっては困る目の離せない子供。
 あくまで一時的という前提で、目的を持って訓練させることもない子供。
 自分が子供の扱い方をわからなくても、両親に可愛がられて育ったトウがいる。
 トウが一幡と遊んでいるのを見ている内に子守のコツを飲み込んで、ブランコまで制作するに至ったのなら善児の学習応用力はすごい。
 潜入や諜報の技術もそうやって上げてきたのかもしれない。
 無警戒に至近距離で「楽しく過ごす」姿を見せ続けられれば、それはその学習能力で無駄な楽しみの味を覚えますね……。
 無駄なく、感情の揺らぎなく生きてきた善児が初めて手にする理由なき無駄、贅沢品であったでしょう。
「あの子はわしのことを好いてくれている」という言葉には、実際に屈託無く笑う一幡の様子の他、あくまで自分が執着しているのではないという言い訳が見えます。
「できねえ」
 自分がそう思ったこと自体にも動揺しているのではないでしょうか。
 する筈のない執着だった。
 腹を決めて短刀を手にしても、トウが一幡を連れ去ることの意味を知っていても、遊具を片付けても一向に消えない執着。
「千鶴丸と何が違う」という事実が過去の子供に対しても改めての執着をもたらす。
 罪の認識と苦しみ。
 トウ役を演じる山本千尋さんのインタビュー(https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/08/28/kiji/20220828s00041000593000c.html)によると一幡の死で善児が傷つくことを想定しながら一幡を「水遊び」に連れ出す演出だそうなので、彼女は殊更に一幡と楽しく遊び、余計に善児と触れさせたかもしれない。
 トウは一幡の改めての殺害命令を予感し、善児がしていなかったとしたら間違いなく判断に甘さがあった。
 もしくは予感していたにも関わらず、執着を植え付けられてしまったか。
 老いだ、衰えだ、堕落だ。
 そう切り捨ててしまうのは簡単だけれど、元々人外の領域であった善児の執着のなさを、他の人が達成できるかと言えばそもそもが無理な話です。
 善児さえ一幡を可愛く思ったということは、トウだって本気で一幡を可愛がってみせたということでもあるでしょう。
 善児の執着にトウの仕掛けた罠の側面があるとするなら、彼女の復讐に対する執着がもたらす捨て身に負けたのです。

 ファムともオムとも言い難い、アンファン・ファタール。
 寄れば最後善児さえ可愛いと思う子供は、確かに生かしておいてはならず、それでも憐れに思うべき存在です。
 物語において千鶴丸は始めの子、一幡は終わりの子。
 いずれ善児に訪れる罪の象徴であったでしょう。

4:一幡の死は善児とトウに何をもたらしたか
 一幡の死後、善児が苦しんだのはわかる。
 小屋の横には一幡の墓があり、無造作に出してある宗時遺品の巾着は、罪を義時に打ち明けてしまおうか悩んでいるからでしょう。
 それでも善児は悲しみの消えきらない顔で、八つ当たりするように薪を割る。
 人のできない暗殺という仕事ができること、その為に無用なものを全て捨てられる、職人気質とも言える孤高の自尊。
 だとすれば悲しみにくれて普通の人のように心乱れ、一幡への執着が断ち切れない自分の姿は、善児にとって恥だと思う。
 その取り返しに挑んだのが頼家暗殺であったでしょう。
「善児、仕事だ」
 告げられる義時の指令に善児の表情は消える。
「へぇ。」
 ただ一言に返す、その抑揚の無い声は善児のプライド。
 そして暗殺の現場で「一幡」の文字に動揺し、標的の頼家に致命傷を負わされ、トウに親の仇と宣告された上で止めを刺される。

 ここだけ切り取れば、善児の死因は一幡への執着であり、いわゆる「人の心を得た所為で死んだ」というパターンです。
 そこをもう一度考えたい。
 善児は頼家の奇襲に失敗し、正面から切り結ぶ形になっています。
 刃渡りの違い、腕力の違いは善児に大きく不利だ。
 事実、頼家に背中を切られたとき、善児は足に薄い傷を負わせたのみです。
 一幡の動揺がなくても仕損じた、返り討ちにあった可能性はかなり高いと見ていいのではなかろうか。
 トウという二の太刀はこういう時の備えであり、彼女がいたので頼家暗殺の任務完遂は果たせている。
 これは一幡の動揺抜きに善児が切られた場合でも十分機能する仕掛けであるから、やはりトウは頼家の暗殺に成功するだろう。そして善児を討つ。
 一幡の死の悩みがない場合、自分が仕損じ、その上弟子に殺される徹底的な弱者と化した自分を善児は受け入れる事ができたでしょうか。
 私は無理だと思います。
 しくじりを重ねたことを直視できず、暴れ、もがき、流血に引きずられるような陰惨な死を遂げていたのではないか。
 それは常に事実を直視し、対策をなし、不要なものを捨ててきた善児の死としては余りに無惨な劣化の姿と思います。

 今まで軽々と捨ててきた執着が捨て切れず、一番集中力のいる局面で気を逸らした。
 現場を離脱し「しくじったなぁ」と呟くときも、善児は冷静だったろう。一幡の死から悩み続けた罪の自覚も思い出し、だからトウの恨みも理解した。
「この時を待っていた」
 引導を渡すようなトウの声に善児はただ頷く。
 自分の衰え、一幡への想い、罪の意識、残り少ない命。
 その全てを受け入れ、善児は自分の生を手放すことを瞬時に決めたのだと思う。
 任務は遂行され、不要なものは自分である。
 自分を超えたトウに殺されるのは恥ではない。贖罪でもある。
 ただ頷き、自分の存在を捨てていった。それは職人の誇り高い最後であったと私は思います。
 だからこそトウの心は善児の死に揺らぐ。
 憎い恨み、技術の恩恵。苦しむ人の心をトウは捨て切れていないということは、苦しむ善児の姿にも影響を受けた筈で。
 一色の感情に偏らないようトウを作り上げてくれた役者・脚本・演出あっての深い余韻でした。

 善児は一幡によって破滅したが、一幡の導きで衰えを超えて死んだ。
 千鶴丸を殺した者が生きている限り、千鶴丸は成仏できず頼家は短命で死ぬ。
 その呪いの見立てと添わせるならば、千鶴丸は一幡として再び死ぬことで善児を殺し、同時に導くことで自らの呪縛を解いていったのかもしれない。
 善児の運命は常に子供にあり、それゆえ名前に「児」の一字があるとしたら、孤高の汚れ役の世界はほんのり明るさを持つように思えるのです。