「鎌倉殿の13人」:源頼朝について考える。2022/04/20

1:ひどいけどつらい。
「鎌倉殿の13人」15回「足固めの儀式」。
 衝撃の上総広常謀殺。頼朝が御家人の結束を固めるための、──引いては御家人の支配を強めるための、見せしめとして衆人環視の元で殺される罪無きNo.2。
 頼朝の仕打ちは残酷であり、冷酷である。
 しかしふと、もしかしてこれは頼朝にとって、第二の旗揚げとでも言うべき局面であり、これまで雑な扱いをしては御家人の信望を無くしていく頼朝の描写とは一線を画すものではなかろうか。と思いました。
 そう考えると、頼朝の置かれた環境の推移と心の動きが少し違った様子で見えてくるのです。
 誰でもいい使い捨てのコマではないからこそ、頼朝は広常を選んだ。
 選ばれるのは、むしろ関係が良く信頼できる相手だったからであり、それを殺し冷酷非情の主君として生きていく覚悟が頼朝にある。
 なぜなら、頼朝は親の仇を討つまで生き抜かねばならないからだ。
 その旗揚げの頃の決意が、今ここで再提示されるということは、その本願を忘れかけていた時期があるということです。
 つまり、油断をしていた。
 もっと気を抜いて穏やかに生きていけるような幻想を見てしまった部分が、あの頼朝にあるのか。
 誰も信じない、心は安達盛長にしか開いてない、猜疑心の塊のような頼朝が、人並みの幸せをうっかり望んで気を弛めた部分があって。
 それを捨てる為の依代に上総広常を選んだのだ。

 信じて尽くした「武衛」に惨殺される広常の哀れは勿論、惨殺する頼朝の側にも業とでも言うのか、運命に翻弄されていく辛さがあって、それが放送前に演じる役者さん達からずっと「15回がすごい」と言われ続けていた魅力でもあるのかなと思います。
 少し、頼朝の話を考えたいのです。

2:頼朝の背景を考える。
 まずドラマ内で描かれている宮中・貴族と武家の階層について、おさらいします。
 土地を(主に暴力で)治める武家が居て、その領有権は都の有力者の支配下に入ることで正当化されている。
 武家は地域ごとに婚姻や「同じ釜の飯」的な共通体験を通じて地縁血縁の繋がりがあり、その繋がりを通じて争いが地域丸ごとの損害を出すことを防いでいる。
 一方貴族社会の方では血筋や慣習的な儀礼・作法を使い、権力のコミュニティに参加する人数を絞ることで特権階層となり権力を維持している。
 どっちも日常的に顔を合わせている関係を基盤に動いている。
 一応平安時代末期も律令国家ではあり、また位階を定める律令故に貴族と武家の階層構造もできているのではありますが、国家運営の形はかなり属人性の強いものでもあります。
 それで、平家は武力・財力の上に特権階層に食い込めるよう婚姻を使い、慣習を貴族のそれと合わせながら実質的な権力を奪った。
 この結果、都から遠く離れた板東では、支配者が貴族から平家に代わって平家方に付いた家だけが良くなったのだから源氏に乗り換えるし、それでも代わりがなさそうならもっと都合の良さそうな家にすげ替えようとなる。
 都は都で平家に権力を取られたので、平家が追い出された以上新たに朝廷政治を動かす中に武家勢力を受け入れまいとする。
 だがもう貴族だけで間接的に全国を統治できる時代には戻れない。限界がきているからこそ平家が台頭したのだから。勿論地縁血縁の持ちつ持たれつで調整できる範囲を超えた板東も、元の小ささには戻れない。
 かくして源平合戦は「この国の成り立ちを根こそぎ変えてしまった未曾有の戦乱」という初回最後のナレーションに表される事象となる。

 頼朝は、地縁血縁のない伊豆で、いつ殺されるかわからない不安定な身の上を囲う流人だった。
 誰にも心を許さず、読経と散歩の日々を送りながら過ごし、まずは八重に、伊東に追い出された後は政子に近づくことによって自分の保護を求めた。
 平家から源氏に乗り換え、ゆくゆくは板東の自主独立を考えている宗時と政子を通じて北条氏の支援を得、石橋山の敗戦を経て勝利を重ね、鎌倉に本拠を作り、流人から地位を回復されることで東国の政治を行うことに法皇の承認を得る。
 町を作り、血縁のある弟たちが寄り、増えてきた御家人の調停や都との事務連絡の為に京都から文官官僚を呼び政庁の仕組みが整っていく。
 頼朝の置かれた環境の変化を踏まえて、亀の前との関係がばれて声望を落としたり御家人の前で軽々しく「やっぱり身内が一番信用がおける」と言ってみたり、鎌倉入り後のトップとして軽率な行動を取る頼朝がどういう心境かと考えてみると「命の危機が緊急に迫る旗揚げ直後を抜け、周囲に人が増え物質的にも豊かになってきたので、気が弛んでいる」以外にないかと思います。
 それは増長でもあり、勿論まだ安定したとは言えない権力の過信でもあり、トップとしてはあるまじき姿ではあるのですが。
 人として当たり前の油断であるとも言える訳で。
 板東武者の気持ちが離れていくのも、頼朝の癇性や都人と板東人の優先順位や気質の違いだけではなく、頼朝という地縁血縁のない余所者としての珍しさが目減りして馴染んできた証拠でもある訳です。
 居ることに馴染んできて、この先のつき合いも長くなるなと思ってみれば欠点も目につくようになってくる。
 慣れてきたから、互いに対して油断もする。
 だから頼朝は御家人を甘く見て雑に扱い、御家人は頼朝を甘く見てクーデターの企てを起こす。
 この初期の緊張を抜けたからこそ現れる危機を、指摘して頼朝の態度を締めた人がいるとすれば、大江広元でしょうね。
 それはきっと政子が亀に「自覚を持って頑張らないと、御台所の地位は危ないぞ」と指摘されてシャンとするのと同じだと思う。
 言われて危機に気が付いて引き締めることができるのは、やはり非凡の証でしょう。

3:頼朝と広常の関係を考える。
 さて、頼朝と広常なのですが。
 板東制圧の戦をしていた頃は、広常は自分の待遇に不満を漏らしていた訳で。だからこそ「鎌倉殿」と呼ぶことを拒否し、結果として「皆武衛だ」のあの宴席がある訳でしょう。
 すっかり「俺の武衛」に惚れ込み入れあげ、尽くす広常はあの宴席だけで出来上がる筈がない。
 政子出産に際して比企能員と乳人を争って「何でもかんでも上総介という訳にはいかん」と釘を刺されていた頃より尚関係が深く見える。
 考えてみたら後妻打ちの裁定で舅の時政を怒らせ地元へ帰られた頼朝が、御家人の取りまとめについて時政の代わりに誰を頼るかと言えば、広常以外ないでしょう。
 任される領分が増えれば広常は信頼を得たと思って応える。
 広常に学問の素養はないけれど、その大立者に相応しい頭の良さとシンプルな人柄は頼朝の信任に足りたでしょう。
 義時の視点であるドラマ内で描写はなくとも、頼朝と広常の間はぐっと近くなっていたのではないか。
 そしてその親密さは頼朝にとって気の弛みと油断の時期の象徴になりうる。
 広元の指摘に改めて、自分と御家人の間をはっきり分けることで権力を固めようとした頼朝が、広常を切るのには必然性がある。
 一度親密になった広常を改めて疎遠にすると、信頼を失ったと判断した広常は今度は確実に離反するからです。
 距離を置くが信頼はしている、という関係性を把握するには形式の必要性を理解する素養が要るのですが、そんな広元レベルの素養を広常に求めるのは無理ですものね。
 自分が情実によって御家人を束ねていく道を諦めた以上、その為に近づけた広常を切らなければならない。
「この鎌倉に、死んでいい御家人とは誰か!申してみよ!」
 広常謀殺に反対する義時を一喝する頼朝の、ほんの少しの言葉の選択ににじむもの。
 あったでしょう、愛着は。
 それでも切らなきゃいけなかったでしょう。
 頼朝は、親の仇である平家を滅ぼす宿願がある。
 まさか義経が本物の大天才で、超短期間で壇ノ浦まで到達してしまうなんてわかりもしない。
 鎌倉殿、と地位はついても後ろ盾となる血族も、引き継いできた所領も基盤にできるものは何もないことに変わりはない。
 生き抜く為に、近寄りがたい冷徹な異邦人になる為に、強気で押し切る男に戻らねばならなかった。
 謀反の芽を摘み組織の権力構造を確定させるため、平家滅亡まで生き抜くため。
 自分を疑うことも無い広常を切った。

 これから3年の内に成すべき事。
 明神様の田んぼを作る。
 社も造る。
 流鏑馬も幾度もやる。
 これ全て鎌倉殿の大願成就と東国の泰平のため。

 全く惚れ込んだ男への情と希望に満ちた広常の願文を、唯一人心を許す盛長と絶対手放してはならぬ義時とだけ頼朝が共有するその意味。
 許せと言うことのないその意味。
 許されないことを承知の罪として人生に背負っていくなら、頼朝に広常以外の選択はなかったのだなと思いました。
 
 負うべき罪とその責任は、広常から奪った大願成就と東国の泰平をもたらす誓いで果たされる。
 その表に出せない誓いのため、「足固めの儀式」が頼朝第二の旗揚げとなるのでしょう。組織立ち上げの祭のような時期の終焉です。

 油断する平凡さと、断ち切れる非凡。
 冷酷になり切れぬ、信じ切れぬ揺らぎ。
 隠された本願の強さと、行動の軽率。
 あまりに深く、警戒故に表現のへたくそな情、それ故の孤独。
 複雑に構築された頼朝の人物像に、改めて「すげぇ」の感嘆しか出ないのです。
 頼朝は清くも正しくもなく、厄介だ。けれども今ドラマの物語を牽引しているのは間違いなく頼朝の複雑な面白さだと思います。

 頼朝が気を弛めた油断の時期に近づけてしまったのは、何も広常だけではない。身内だということに浮かれて受け入れてしまった弟たちが家の中にいるという不穏。
 幼い嫡男万寿は体が弱い。
 No.2を排して組織が安定するのは、No.1の揺るぎない後継を育てきったときだけだ。横並びで同じ条件である筈の朋輩が、昇進して自分の上に立つことを認められる人間は多くない。
 力で押さえつけてしまった謀反は面従腹背の姿勢に潜り、密告讒言の温床になりかねず、担ぎ出せそうな冠者殿は一人じゃない。
 泰平、安定にほど遠い次の不穏の種は既にある。

 そして全く気づかぬまま広常謀殺の片棒を担がされた義時が、出せぬ本心を打ち明ける先を義村に求める姿を「頼朝に似てきた」と評される。
 また、頼朝が東国の絶対権力者「鎌倉殿」になった以上務められなくなった相談窓口を政子が務め始める。
 この「第二の頼朝旗揚げ」である「足固めの儀式」の話に、後の執権義時と尼将軍政子へのステップアップ、更に次世代泰時の誕生が合わせて描写されていることに頼朝死後への布石を感じます。

 時代のうねりは止まることなく、それでもその怒濤の中に「次」の形が生まれてくる。
 とんでもないなあ、と思うのです。

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