「MIU404」:「バットリ」を考える2026/03/28

1:動かないものが動くとは。

「MIU404」は2020年夏に放送されたテレビドラマである。
 放送からそろそろ6年目、配信も再放送も度々なので、今更ネタバレも何もなかろうとは思うのですが、最終回に仕込まれた大きなケレンであり、同時に一種「MIU404」の象徴になっているものがあります。
 通称「バッドトリップ」略して「バットリ」。
 喧嘩別れの末に志摩の死亡と伊吹の殺人という、物語がバッドエンドに終わるような展開が繰り広げられるが、実際には監禁され嗅がされた違法薬物のもたらした「バッドトリップ」であったというどんでん返しである。
 そのバッドトリップを覆すように無事生還し、復縁し、ラスボスの逮捕とその後も続く日々の中で物語は閉じられる。
 ストーリー分岐で違う結末を迎える展開は、ゲームやマンガ、アニメやライトノベルなど二次元の作品では珍しいものではない訳です。
 しかしそれがドラマ、特に原作付きでもそういう前提が宣言されている訳でもない作品で「バッドエンドとトゥルーエンド」をやってのけるのは中々の不意打ちでした。
 それまで動くことのないと思っていた世界の転換、再構築。
 仕掛けとしてはこの上なく大きく奇抜で、それだけに外したら致命打になってしまいます。

 これを外すことなく決める為の準備はどう仕込まれているのか。
 そもそもこの盛大なケレンを何故ドラマに必要としたのか。
 考えたいと思います。


2:あのときスイッチに会わなければお前はきっと俺だった

「バットリ」の大ケレンはそもそも「悪夢」という建前でリアリティラインを崩さないまま「アナザーエンド」を形にしたものです。
 この「別の分岐の結果があり得た」姿に「悪夢を見た」という現実起こり得る事象をあてがった為に、SF的な平行世界を渡ったような効果が出ています。
 二次創作でも「バッドエンドから戻れなかった世界」「トゥルーエンドは夢から覚めた夢で再び別のバッドエンドに向かう世界」は人気のモチーフです。
 取り返しのつかない様のリアリティが「バットリ」を小手先のギミックに終わらせず、「目を覚ます」後の世界を美しく輝かせる。
 ここで考えるのはふたつ。
 ・SFではない「MIU404」がSF的「バットリ」を視聴者に納得させる叙述の方法
 ・SFではない「MIU404」が「平行世界を渡ったような効果」を必要とした意味

 まず「バットリ」を納得させる叙述方法について。

 叙述方法その1:「スイッチ」という意識づけ

 勿論前述の通り悪夢・幻覚という現実的な事象を名目としているので、唐突にSFの用語が発生した訳ではありません。
 とは言え「夢オチ」という様式でありがちな説明の放棄に伴う「残念な感じ」が無い、望みが叶ったかのようなポジティブな印象に繋がる所がポイントです。
 私は「あったかもしれない別の今」へ思いを馳せるようなモチーフが繰り返し使われたことが、「かもしれない予測と違うことがあった今」を受け入れる下地だったと考えています。
 そう3話から語られる「スイッチ」です。
 必ずしも本人がそれと自覚している訳でもない、選べたとは限らない主に他人との出会い、それによって人の人生が流される「スイッチ」。

 もしもあの改札前で立ち止まらず歩いていれば 君はどこにもいやしなくて 僕もここにいなかった。

 唐突に米津玄師「Plazma」を引用するのも何ですが、何気ない瞬間を分岐と見て「もしあの時」を思わせるのは「あったかもしれない別の今」を受け入れさせる為の基本構造だと考えます。
 選択肢がわかりやすく提示されるフラグではなく、ピタゴラ装置を転がっている最中の玉からは見えていないルートの分岐が「スイッチ」。
 このスイッチの入れ方で玉の転がる先は変わる。
「誰かが最悪の事態になる前に止められるんだよ?超いい仕事じゃーん」
 1話で伊吹が語り、志摩が感動してしまう言葉は「MIU404」の作中全体をぶち抜く希望が、この「あったかもしれない別の今」をいい意味で獲得していく努力に尽きることを示すでしょう。

「最悪の事態」という想定を変えていく為の「スイッチ」になるべく四機捜は走っていく。
「間に合う」「間に合わせる」「間に合った」
 この駆けつけるべき「時点」を意識させるフレーズは「スイッチ」の存在と違う結末を同時に見る側の意識に擦り込んでいきます。
 例えば2話の「無実でいてほしかったな〜」という慨嘆は、既にして起きていた衝動的な殺人事件だけでなく、そのもっともっと昔の親子の断絶から「スイッチ」であったように見せる。
 3話は駆けつけるべき「時点」を欺く虚偽通報と、確保する手からこぼれていく成川の背に「スイッチ」の行く先を重ねる。
 7話の「10年あったら何ができる?」の夢想。
 8話は伊吹が「いつならガマさんを止められた?」と叫ぶ。
 繰り返される「もしもあの時」のモチーフ。
 また、6話の「香坂の背を見る、言葉を掛ける志摩の映像」は「そうしてやりたかった志摩の後悔」で実在しない光景でした。
 11話の「バットリ」前に既に「もしもあの時」が形として提示されることの予行演習が済んでいたとも言えると思います。

 叙述方法その2:いたかもしれない俺はお前

 予行演習の形としてはもうひとつ。
「あったかもしれない別の今」として主人公の2人が四機捜の刑事という今と違った「今」に至っていたらと思わせる人物はいるのでないか。
 直接平行世界仮説な2人を出す訳にはいきません。
「MIU404」はSFじゃないからです。
 同じ人物は2人現れない。「時は戻らない、取り返しのつかないことはなかったことにならない」も繰り返されています。
 しかし8話では「ガマさんがいなきゃ、俺はチンピラになって組員にでもなって、志摩に逮捕されてたな」と伊吹が言う。
 刑事ではなく犯罪者となっていた「スイッチ」の違う誰か。
 4話の青池透子は伊吹のスイッチ違いなのではないでしょうか。
 バカな女と侮られがちな、実は少しずつ暴力団から横領ができる度胸のある女。逃亡時にかさばる現金から宝石にしてあみぐるみに隠す計画の練れる賢い女。
 そして死を目前にその宝飾品を「恵まれない少女への支援団体」に託すことに幸せと希望を見出せる女。
 逃亡という彼女の動きは「足が速い」をアイデンティティに据えられた伊吹と重ねやすい。
 実らない寄付をしたことのある苦い思い出が伊吹にあるはめ込み方。
 刹那的で華やかに散る青池の姿は、主役級の夢の姿とも思うのです。

 じゃあ志摩が犯罪者となっていたら、というスイッチ違いはあるのか。
 伊吹と青池の組み合わせと対比させるなら、動機も手段も現実と離れることなく、かつ頭脳派であることを見せていく犯罪になるでしょう。
 5話の水森祥二朗。
 事業の失敗と残った借金、監理団体の不法行為に消耗した疲労、先行きを見失うように計画する強盗の煽動。
 結果としては監理団体の摘発に繋がって実はそれなりためになっているけど印象は懐いていた女の子への裏切りが先に立つ。
 志摩の「相棒殺し」は教導のミスとして志摩に刻まれている。
 何もかも現実的で、人らしく弱くずるい水森の話は、地味に嫌な後味で記憶に残ります。

 伊吹を置いて自分だけ濃いグレーゾーンに足を突っ込む裏切りをした志摩と、特にプランがある訳でもないのにマリナーへ突っ込むギャンブルに走った伊吹と、11話の展開とも整合するようにも思うのです。

 一方、犯罪者ではなくより失敗の少ない側になっていたらというスイッチ違いはないのか、という想像もしてみましょう。
 伊吹の名前は虚数=𝑖。志摩の名前は1未満。実数プラスになっていたら。
 桔梗ゆづると陣馬耕平という、2人の上司ではないかと。
 桔梗さんは「やるべき」と掲げたことに対する意志の強さで、陣馬さんは現実と折り合いをつけていく柔軟さと顔の広さで、それぞれ理想的と見える面のある人です。
 伊吹が「だったらよかったのにな」という希望に具体的な行程を探し協力を取り付けることができる社会性があったら。
 志摩の失敗に凹むと深く長い、その反省深さから一旦手を放す根気があれば。
 伊吹は案外桔梗さんに似て、志摩は陣馬さんに似るんじゃないですかね……というか、そうなりたいと思う部分があるんじゃないですか……。
 何で志摩が「陣馬さんの」顔と信頼の広さを伊吹に誇り、陣馬さんが死にかけた時に自分も死んだようにどん底へ沈むかと考えたら、あれはやっぱり憧れなんでしょう。伊吹は伊吹で「俺、隊長のこと好きかも」て感嘆する訳で。

 ともあれ「もしもあの時」と「スイッチ違い」を繰り返し、「時は戻らないし、起きたことは無かったことには変わらない」現実とぶつけ続けることで、それがひっくり返ることを望むように視聴者の下地は整えられていく。
 その結果「バットリ」は夢オチの残念さより、望まれた希望の実現として受け取られた。
 これが「バットリ」を視聴者に納得させる叙述の仕組み。
 じゃあ何故その希望の実現に「平行世界を渡ったような効果」を必要としたんでしょう。
 次は「バットリ」の目的を考えます。


3:だって、どこかへ行きたかったから

「MIU404」が現実世界の法則を崩さないようにしながらも「バットリ」という大きなケレンで平行世界仮説を扱うSF的な効果を得た。
 その効果を目指した理由を考えたとき、やはり「2020年夏」という放送時期と無縁だとは思えないのです。

 新型コロナウイルスCovid-19のパンデミックは、2019年12月に始まる。
 緊急事態宣言が重なり、制作そのものにも中断の時期が挟まれています。
 今だって終わってはいない。指定感染症のラベルを変えて公的補助を切り下げただけです。
 とは言え、全く未知のウイルスで、致死性もあり、一般的な感染症対策の最高ランクを施しても収まらないし先も見えない、という20年夏の恐怖は特殊だった。
 感染した、と言えば苛烈な私的制裁の対象でした。
 一方で不自由に対する不満や生活の不安は医療関係者に矛先が向き、ワクチンと医療に対する攻撃は今でも筋違いの復讐めいた「陰謀論」の重要な核のひとつです。
 症状は強く感染すれば一人で済まず社会的に終わる恐怖。
 救いの見えない籠城戦に追い込まれたような日々の中、みんなどこかに行きたかったし、誰かに来てほしかった。

 現実は既にバッドエンドだった。
 だからこそトゥルーエンドに「変わる」希望を提示する必要があったのだと思います。
 フィクションの中の世界は一度壊れ、今あの世界は現実と地続きになったという感覚。
 誰かの最悪の事態に間に合わせる、助ける為に伊吹と志摩が走っている、その誰かとはあなただと語りかける、その為の仕掛けが「バットリ」だった。
 放送後後2年にわたる「メロンパン号キャラバン」はその効果を更に増した。その後「ラストマイル」のプロモーションに至るまで、更に2年のイレギュラーなお披露目が続く。
 ばかばかしい錯覚というなかれ、この時ドラマの世界は「現実」だったのである。

「虚実皮膜」という言葉がある。
 近松門左衛門の芸術論として伝わる。芸というのは虚構と現実との膜のように薄い微妙な境にあり、「虚にして虚にあらず実にして実にあらずこの間に慰が有たもの也」と続く。
 虚構と現実の境を曖昧にした効果の最上級は「慰め」なのである。
「MIU404」の内には確かにそれがあった。

「MIU404」は世界線を同じくする「アンナチュラル」「ラストマイル」に比べてもストーリーの構造が格段に強い作品です。
 放送時のみの消費を前提としたドラマの、いわば掛け流しの軽さ薄さより、何度も繰り返して愛玩することを前提とした漫画や小説に近い重さと堅牢さがあります。
 これは皮肉にも制作中断が制作期間を延ばし、そもそも企画そのものを練り直すレベルの危機感があった、時代の効果だろうな…と改めて思うのです。
 よく諦めずに放り出さずに続けて下さった、この一作に賭けて下さった。

 20年、「MIU404」に助けられた人は多かったろうと思う。
 ありがたかったな、と今でも恩に思ってます。

「MIU404」:「バットリ」を考える2026/03/28

1:動かないものが動くとは。

「MIU404」は2020年夏に放送されたテレビドラマである。
 放送からそろそろ6年目、配信も再放送も度々なので、今更ネタバレも何もなかろうとは思うのですが、最終回に仕込まれた大きなケレンであり、同時に一種「MIU404」の象徴になっているものがあります。
 通称「バッドトリップ」略して「バットリ」。
 喧嘩別れの末に志摩の死亡と伊吹の殺人という、物語がバッドエンドに終わるような展開が繰り広げられるが、実際には監禁され嗅がされた違法薬物のもたらした「バッドトリップ」であったというどんでん返しである。
 そのバッドトリップを覆すように無事生還し、復縁し、ラスボスの逮捕とその後も続く日々の中で物語は閉じられる。
 ストーリー分岐で違う結末を迎える展開は、ゲームやマンガ、アニメやライトノベルなど二次元の作品では珍しいものではない訳です。
 しかしそれがドラマ、特に原作付きでもそういう前提が宣言されている訳でもない作品で「バッドエンドとトゥルーエンド」をやってのけるのは中々の不意打ちでした。
 それまで動くことのないと思っていた世界の転換、再構築。
 仕掛けとしてはこの上なく大きく奇抜で、それだけに外したら致命打になってしまいます。

 これを外すことなく決める為の準備はどう仕込まれているのか。
 そもそもこの盛大なケレンを何故ドラマに必要としたのか。
 考えたいと思います。


2:あのときスイッチに会わなければお前はきっと俺だった

「バットリ」の大ケレンはそもそも「悪夢」という建前でリアリティラインを崩さないまま「アナザーエンド」を形にしたものです。
 この「別の分岐の結果があり得た」姿に「悪夢を見た」という現実起こり得る事象をあてがった為に、SF的な平行世界を渡ったような効果が出ています。
 二次創作でも「バッドエンドから戻れなかった世界」「トゥルーエンドは夢から覚めた夢で再び別のバッドエンドに向かう世界」は人気のモチーフです。
 取り返しのつかない様のリアリティが「バットリ」を小手先のギミックに終わらせず、「目を覚ます」後の世界を美しく輝かせる。
 ここで考えるのはふたつ。
 ・SFではない「MIU404」がSF的「バットリ」を視聴者に納得させる叙述の方法
 ・SFではない「MIU404」が「平行世界を渡ったような効果」を必要とした意味

 まず「バットリ」を納得させる叙述方法について。

 叙述方法その1:「スイッチ」という意識づけ

 勿論前述の通り悪夢・幻覚という現実的な事象を名目としているので、唐突にSFの用語が発生した訳ではありません。
 とは言え「夢オチ」という様式でありがちな説明の放棄に伴う「残念な感じ」が無い、望みが叶ったかのようなポジティブな印象に繋がる所がポイントです。
 私は「あったかもしれない別の今」へ思いを馳せるようなモチーフが繰り返し使われたことが、「かもしれない予測と違うことがあった今」を受け入れる下地だったと考えています。
 そう3話から語られる「スイッチ」です。
 必ずしも本人がそれと自覚している訳でもない、選べたとは限らない主に他人との出会い、それによって人の人生が流される「スイッチ」。

 もしもあの改札前で立ち止まらず歩いていれば 君はどこにもいやしなくて 僕もここにいなかった。

 唐突に米津玄師「Plazma」を引用するのも何ですが、何気ない瞬間を分岐と見て「もしあの時」を思わせるのは「あったかもしれない別の今」を受け入れさせる為の基本構造だと考えます。
 選択肢がわかりやすく提示されるフラグではなく、ピタゴラ装置を転がっている最中の玉からは見えていないルートの分岐が「スイッチ」。
 このスイッチの入れ方で玉の転がる先は変わる。
「誰かが最悪の事態になる前に止められるんだよ?超いい仕事じゃーん」
 1話で伊吹が語り、志摩が感動してしまう言葉は「MIU404」の作中全体をぶち抜く希望が、この「あったかもしれない別の今」をいい意味で獲得していく努力に尽きることを示すでしょう。

「最悪の事態」という想定を変えていく為の「スイッチ」になるべく四機捜は走っていく。
「間に合う」「間に合わせる」「間に合った」
 この駆けつけるべき「時点」を意識させるフレーズは「スイッチ」の存在と違う結末を同時に見る側の意識に擦り込んでいきます。
 例えば2話の「無実でいてほしかったな〜」という慨嘆は、既にして起きていた衝動的な殺人事件だけでなく、そのもっともっと昔の親子の断絶から「スイッチ」であったように見せる。
 3話は駆けつけるべき「時点」を欺く虚偽通報と、確保する手からこぼれていく成川の背に「スイッチ」の行く先を重ねる。
 7話の「10年あったら何ができる?」の夢想。
 8話は伊吹が「いつならガマさんを止められた?」と叫ぶ。
 繰り返される「もしもあの時」のモチーフ。
 また、6話の「香坂の背を見る、言葉を掛ける志摩の映像」は「そうしてやりたかった志摩の後悔」で実在しない光景でした。
 11話の「バットリ」前に既に「もしもあの時」が形として提示されることの予行演習が済んでいたとも言えると思います。

 叙述方法その2:いたかもしれない俺はお前

 予行演習の形としてはもうひとつ。
「あったかもしれない別の今」として主人公の2人が四機捜の刑事という今と違った「今」に至っていたらと思わせる人物はいるのでないか。
 直接平行世界仮説な2人を出す訳にはいきません。
「MIU404」はSFじゃないからです。
 同じ人物は2人現れない。「時は戻らない、取り返しのつかないことはなかったことにならない」も繰り返されています。
 しかし8話では「ガマさんがいなきゃ、俺はチンピラになって組員にでもなって、志摩に逮捕されてたな」と伊吹が言う。
 刑事ではなく犯罪者となっていた「スイッチ」の違う誰か。
 4話の青池透子は伊吹のスイッチ違いなのではないでしょうか。
 バカな女と侮られがちな、実は少しずつ暴力団から横領ができる度胸のある女。逃亡時にかさばる現金から宝石にしてあみぐるみに隠す計画の練れる賢い女。
 そして死を目前にその宝飾品を「恵まれない少女への支援団体」に託すことに幸せと希望を見出せる女。
 逃亡という彼女の動きは「足が速い」をアイデンティティに据えられた伊吹と重ねやすい。
 実らない寄付をしたことのある苦い思い出が伊吹にあるはめ込み方。
 刹那的で華やかに散る青池の姿は、主役級の夢の姿とも思うのです。

 じゃあ志摩が犯罪者となっていたら、というスイッチ違いはあるのか。
 伊吹と青池の組み合わせと対比させるなら、動機も手段も現実と離れることなく、かつ頭脳派であることを見せていく犯罪になるでしょう。
 5話の水森祥二朗。
 事業の失敗と残った借金、監理団体の不法行為に消耗した疲労、先行きを見失うように計画する強盗の煽動。
 結果としては監理団体の摘発に繋がって実はそれなりためになっているけど印象は懐いていた女の子への裏切りが先に立つ。
 志摩の「相棒殺し」は教導のミスとして志摩に刻まれている。
 何もかも現実的で、人らしく弱くずるい水森の話は、地味に嫌な後味で記憶に残ります。

 伊吹を置いて自分だけ濃いグレーゾーンに足を突っ込む裏切りをした志摩と、特にプランがある訳でもないのにマリナーへ突っ込むギャンブルに走った伊吹と、11話の展開とも整合するようにも思うのです。

 一方、犯罪者ではなくより失敗の少ない側になっていたらというスイッチ違いはないのか、という想像もしてみましょう。
 伊吹の名前は虚数=𝑖。志摩の名前は1未満。実数プラスになっていたら。
 桔梗ゆづると陣馬耕平という、2人の上司ではないかと。
 桔梗さんは「やるべき」と掲げたことに対する意志の強さで、陣馬さんは現実と折り合いをつけていく柔軟さと顔の広さで、それぞれ理想的と見える面のある人です。
 伊吹が「だったらよかったのにな」という希望に具体的な行程を探し協力を取り付けることができる社会性があったら。
 志摩の失敗に凹むと深く長い、その反省深さから一旦手を放す根気があれば。
 伊吹は案外桔梗さんに似て、志摩は陣馬さんに似るんじゃないですかね……というか、そうなりたいと思う部分があるんじゃないですか……。
 何で志摩が「陣馬さんの」顔と信頼の広さを伊吹に誇り、陣馬さんが死にかけた時に自分も死んだようにどん底へ沈むかと考えたら、あれはやっぱり憧れなんでしょう。伊吹は伊吹で「俺、隊長のこと好きかも」て感嘆する訳で。

 ともあれ「もしもあの時」と「スイッチ違い」を繰り返し、「時は戻らないし、起きたことは無かったことには変わらない」現実とぶつけ続けることで、それがひっくり返ることを望むように視聴者の下地は整えられていく。
 その結果「バットリ」は夢オチの残念さより、望まれた希望の実現として受け取られた。
 これが「バットリ」を視聴者に納得させる叙述の仕組み。
 じゃあ何故その希望の実現に「平行世界を渡ったような効果」を必要としたんでしょう。
 次は「バットリ」の目的を考えます。


3:だって、どこかへ行きたかったから

「MIU404」が現実世界の法則を崩さないようにしながらも「バットリ」という大きなケレンで平行世界仮説を扱うSF的な効果を得た。
 その効果を目指した理由を考えたとき、やはり「2020年夏」という放送時期と無縁だとは思えないのです。

 新型コロナウイルスCovid-19のパンデミックは、2019年12月に始まる。
 緊急事態宣言が重なり、制作そのものにも中断の時期が挟まれています。
 今だって終わってはいない。指定感染症のラベルを変えて公的補助を切り下げただけです。
 とは言え、全く未知のウイルスで、致死性もあり、一般的な感染症対策の最高ランクを施しても収まらないし先も見えない、という20年夏の恐怖は特殊だった。
 感染した、と言えば苛烈な私的制裁の対象でした。
 一方で不自由に対する不満や生活の不安は医療関係者に矛先が向き、ワクチンと医療に対する攻撃は今でも筋違いの復讐めいた「陰謀論」の重要な核のひとつです。
 症状は強く感染すれば一人で済まず社会的に終わる恐怖。
 救いの見えない籠城戦に追い込まれたような日々の中、みんなどこかに行きたかったし、誰かに来てほしかった。

 現実は既にバッドエンドだった。
 だからこそトゥルーエンドに「変わる」希望を提示する必要があったのだと思います。
 フィクションの中の世界は一度壊れ、今あの世界は現実と地続きになったという感覚。
 誰かの最悪の事態に間に合わせる、助ける為に伊吹と志摩が走っている、その誰かとはあなただと語りかける、その為の仕掛けが「バットリ」だった。
 放送後後2年にわたる「メロンパン号キャラバン」はその効果を更に増した。その後「ラストマイル」のプロモーションに至るまで、更に2年のイレギュラーなお披露目が続く。
 ばかばかしい錯覚というなかれ、この時ドラマの世界は「現実」だったのである。

「虚実皮膜」という言葉がある。
 近松門左衛門の芸術論として伝わる。芸というのは虚構と現実との膜のように薄い微妙な境にあり、「虚にして虚にあらず実にして実にあらずこの間に慰が有たもの也」と続く。
 虚構と現実の境を曖昧にした効果の最上級は「慰め」なのである。
「MIU404」の内には確かにそれがあった。

「MIU404」は世界線を同じくする「アンナチュラル」「ラストマイル」に比べてもストーリーの構造が格段に強い作品です。
 放送時のみの消費を前提としたドラマの、いわば掛け流しの軽さ薄さより、何度も繰り返して愛玩することを前提とした漫画や小説に近い重さと堅牢さがあります。
 これは皮肉にも制作中断が制作期間を延ばし、そもそも企画そのものを練り直すレベルの危機感があった、時代の効果だろうな…と改めて思うのです。
 よく諦めずに放り出さずに続けて下さった、この一作に賭けて下さった。

 20年、「MIU404」に助けられた人は多かったろうと思う。
 ありがたかったな、と今でも恩に思ってます。