もう「お蔵入り」は十分だ。2023/07/15

 不祥事だ、というと一斉にDVDもBlu-rayも売るな、配信もだめだ、再放送など以ての外という対応になって、しかもそれは「社会的責任」の名の下に行われる。
 その結果当事者以外の出演者及び制作スタッフは「お蔵入り」の責任に連座することになり、作品のファンはどれだけ熱を込めて紹介しようと「今は見られないんです」で結ばざるを得ない。
 そして理由が公開されるかどうかもまちまちなまま、まちまちな期間でまちまちな範囲の制裁解除がなされていく。地上波の再放送が一番遅いのは均一であろうか。

 不祥事と言っても人前で醜態晒したり不倫など、イメージダウンが激しいものから「犯罪者」となる刑法犯まで様々であるが、この話では刑法犯に絞る。
 薬物の使用、性犯罪、暴力、そして一家心中の生き残りに責任を問う自殺幇助が付け加わった。

 悪いことをした人はそれなりの報いを受けるべき、という感覚は素朴な感情ではある。
 しかしその報いは、本来を司法の手によって為されるものというのが法治国家の原則でしょう。
 勿論司法によって与えられた刑罰は、受けたことでその罪を無かったことにはできない。
 一般に多くは事件を原因に職を失う。それは社会的地位を奪い、罪の発覚以降将来へわたって収入を奪う社会的制裁となる。
 しかし再犯のおそれ及び「普通」と違う経歴を持つ者への不信に基づく排斥は、本来差別である。
 実際に再犯・累犯する者の多さや、犯罪が全てを失わせるイメージに犯罪抑止効果を期待することで見逃されているだけに過ぎない。
 実際刑の執行後の元犯罪者の人生は受け入れるコミュニティの有無と性質に掛かっているし、そこには過去犯人がどのように生きてきたかも表される。
 しかし芸能人は将来にわたる仕事の前にまず過去の仕事を失う。
 巻き添えにする者を増やすことは仕事上の人間関係も壊すだろう。
 積極的に社会から追い出し、過去の仕事を無かったものにし、自分たちは犯罪を肯定しないとアピールする。
 それが犯罪者になった者に仕事を与えたものの「社会的責任」というのである、が。
 それは何に対してどういう根拠で誰が負う責任なのか。

 疑問はある。
 そして不満はあれども顧客が「仕方ない」と落ち着きがちなのは、自分が作品を見たいと、他人にも見て欲しいと思うのが「我欲」と思うと後ろめたいからである。
 後ろめたく感じるようにされてしまった。
 犯罪者に与える制裁を嫌だという事は犯罪者を甘やかすことであり、被害者がいる場合は被害者の軽視であり、「社会的責任」に異を唱えることは「反社会的」に思えるからである。
 皆「いい人」でありたいのである。
 私だってそうだ。
 しかし、犯罪に対して社会が負わせる責任は本来司法の手で負わされた量刑であり、その他の私的制裁には何ら法的根拠がないのではないか。
 犯人は犯罪を行うまでは何の制限も受けない市民であり、刑を受けた後は本来また市民に戻るのが法である。
 根拠と限度のない私的制裁に賛同することは、果たして妥当なのか。
 それは相手が犯罪者であることを理由として、懲罰を超えた新たな加害行為に賛同することになってはいないか。
 考えるべきは最終的な製品の買い手であり業界の外にある私たちではないのか、考える時期にきているのではないかと思うのです。

 犯罪を起こす前の、何問題を起こすでもなかった時期の作品に連帯責任を問う根拠はあるか。
 犯罪者となる未来を予知できない以上、制作段階では全力を尽くすのは当たり前ですし、それは何ら罪を問われる必要はありません。

 しばしば根拠として用いられる「被害者の感情」は本当に被害者の救いになるのか。
 被害者の救済は、被害を受けたことを原因とする生活上の不利益を一切受けない形が理想と考えます。
 被害者は加害者がどう刑を受けようが、制裁を科されようが、加害者の人生に責任を負わされるべきではありません。
 被害者の感情が満足する時なんか来なくて当たり前です。だからこそ被害者に制裁を終わらせない為の責任を押しつけたらいけない。
 立場が弱いのは、被害者です。
 加害者の映像が心理的につらい、というのはあるでしょうし、特に症状がひどい、生活に支障があるというケースもあるでしょう。
 それは個別に考慮すべき事案であって、一般化する必要があるでしょうか。
 事件の現場となった建造物は建て替えられるケースもある。
 しかし、限られる。
 学校や福祉施設など利用者が選択できる代替施設があるとは限らず、利用者の自由にできない滞在時間が長く、かつ利用者がそこにいる自分と被害者を重ねて事件を想起し、危険を感じる割合が無視できない人数に至るケースである。
 それ以外の場合、たとえば駅や高速道は現場であってもそのまま残る。重大事故を起こした車と同型式同カラーの車は回収されない。
 社会から無くすことの損失が、その効果に比して過大とされるからでしょう。
 映像作品の影響は無視できるほど小さいですか。
 見たい人が選択して再生する配信形式だとしても、作品の存在を許さない方が比重が大きい程に小さいですか。
 私がある程度納得できる「お蔵入り」の理由としては、公判ことに裁判員裁判において加害者のパブリックイメージが被害者の不利益に繋がる危険性が上げられます。
 しかしそれも控訴審以降、専門家の領域で行われている裁判の過程がパブリックイメージ程度の影響を排除できないとしたら、むしろその方が問題なのではないでしょうか。
 また、回復不能な被害の償いも金銭による賠償とする現行法制度の中で、滞りなく支払いが行われるべきことを考えれば、その為の原資がある方が支払いは順調に決まってます。

 そして作品を事実上なかったことにする制裁は、業界に属する人間と制作環境の健全化と再発防止策に役立つのか。
 一向になくならないではないですか。
 制裁だけが業界の「努力」なのかと疑います。

 そもそも制裁解除に至る経過に公正性はあるのか。
 実際は誰かが「もうよかろう」と言えばよくて、その「もうよかろう」の裁定が業界内の権力になっているのではないか。
 その裁量権はハラスメントに繋がるものではないのか。
 業界の外から見ればたかだか所属事務所の移籍程度のことでさえ、ブランドとして育った名前は置いていけの、クライアントが仕事を与えないよう手を回すの、同じグループとしての活動が維持できないよう人数を分けろの、嫌がらせとしか思えない行為を隠しもしない芸能業界に対し、その公正性を信じるのは残念ながら難しいことです。
 先だって、ピエール瀧の映像作品が解禁されるに当たって、「執行猶予期間が無事満了し、本人も活動を再開している」旨の理由の告示がありましたが、その程度のことさえ稀です。
 加害者の正しくなさを追及するなら、自らもまず正しくあっていただきたい。

 以上、長くなりましたが「お蔵入り」は根拠が甘く責任の所在もあやふやなまま恣意的に行われている私的制裁であり、社会的にプラスの影響は見られないと思ってよいのだからそろそろ改めるべきだ、という一介の零細顧客の主張でした。

「お蔵入り」の損失を許容範囲に抑えた規模でしか作品を作らないとする。
 人数を使えば使うほどリスクが高いから少人数。引退までの時間が長い若年者こそリスクが高くなるから出演料は一層間引かれなければならない。制作費の上限は損失見込額だから、技術の質なんか知ったことじゃない。
 そんな映像作品の制作事情が当たり前になったとして、その制限下で目を見張る作品が果たしてできますか。
 精魂込めた作品なしで、芸能業界は発展していきますか。
 それで海外の作品と戦っていけるのですか。
 閉じて縮小していく一方の市場ではどんどん資金が入らなくなり、ろくに育成もできないままの若者を、その瞬間だけ消費していく業態に落ちかねませんが、それでもこの制裁の慣行を続ける価値がありますか。
 やめましょうよ、そろそろ。
 作品のエンドユーザーとしては、関わる人が脅されることなく普通の職場として普通に働ける産業であって欲しいです。