「ストレンジャー~上海の芥川龍之介~」:芥川を映像にするということ2020/01/09

1:「思ってたのと違う」という衝撃

 いや、そういうことか。
 エンディングが流れ、スタッフロールが流れていくのを見ながら私は額を叩いて天井を見た。
 芸術映画だったのだ、これは。
 事前にメイキング番組以外ちゃんと見てなかったからだ、と言われれば返す言葉もありません。
 映像がぴっかぴかに綺麗なのに夢中で、制作陣が以前最高に楽しんだドラマ(ロング・グッドバイ)と同じなのが心底楽しみで、すいません。
 芥川龍之介が主役な事はわかっていても、紀行文「上海游記」を中心とした複数の著作が原作だということさえちゃんと聞いていませんでした。
 芥川が主役であるだけでなく、芥川の作品の映像化でもあるなら、それは映像で見る純文学だったに決まっているのである。
 ついでに言えば1話完結だということも気がついてなく……エンディングに入りかけたところで「えっ初回じゃなかったの。5話くらいあってくれても良かった。せめて前後編。」と思ってしまった「人の話はちゃんと聞きましょう」という私の粗忽はさておき。

 誤解がないようにまず言っておかねばなりますまい。
 楽しかったんです。
 私は元来娯楽性の高い物語が好きで、芸術だアートだ、と言われるとちょっと身構えるタイプなのですが、それでも楽しかった。
 単純に言えば、完成度が高かったのだと。

2:ストレンジャーなのは何故、そして誰なのか

 映像は一分の隙もない美しさで、漠然としたところが何一つなかった。漠然茫洋としているのは芥川の視線だけで、逆に言えば漠然とした芥川を浮き出させる為に他は隙間無く固める必要があったのでしょう。
「漠然とした不安」
 芥川の遺書の有名なフレーズですが、神経質で移ろいやすく「漠然」としたところに芥川らしさがあります。
 弱いものを不憫に思いながらも、その逞しさの裏返しである厚かましさに鼻白み、知識人の高潔な精神に敬意を抱く反面、演出される高貴さに反感を抱く。
 本人も繊細な美意識の「先生」ではあるけれど、女遊びの不始末を妻に押しつけて逃げる未成熟で図々しいところがある。
 ドラマを見る側からも、芥川に対する感覚は一定せず共感と反感を細かに反転させながら距離を保っている。
 芥川に関わる一切を安定させない、その姿勢を徹底させて初めて芥川を「漠然」とさせることができる。
 その状況をなんと呼ぶかと言えば「stranger」でしかないでしょう。芥川は上海を訪れる異邦人であるのみならず、社会からは小説家という自由業として、家庭からは不倫という裏切りによって、自ら落ち着くべきところを無くした埒外の者でもある訳です。

 常に不慣れ、誰からもわかられない、漠然としたストレンジャー、芥川龍之介。
 同族無き彼が、聾唖の男娼ルールーに見たものはなんだったのか。
 漠然とした芥川を演出するため、映像も音も台詞も一分の隙無く固めた世界で登場し、基本となる原作「上海游記」には影も形のないルールー。
 物語の鍵は当然ルールーだということになります。
 ルールーは何者なのか。
 文字が書ける、ということから本来卑しからぬ階層の出自と推察される。
 確かなことは聾唖であること。但し演技かもしれない。芥川の声に反応でき過ぎている気がする。
 男娼であることもおそらく確実とは見えますが、実際見ている仕事は林黛玉の仕切る宴席の余興の手伝いであり、そもそも死後に嘆く女たちの様子から見るとかなり大切にされているのが気に掛かります。
 煙草の使い走りに見る誠実さも、勿論本人の気質ではありましょうが、裏切られた経験が少ないので誠実さを失わずに済んでいるという可能性も感じます。
 身を落として日が浅いのか、それにしては女たちとの結びつきが強過ぎる。かと言って彼女たちと同じ境遇で育っているなら、彼一人読み書きができる理由が一層謎になる。
 そもそも妓楼にも数少ないと思われる男娼。
 つまり、全ての要素がかみ合わない異質の存在だということです。
 もう一人の「stranger」。
 徹底的に「stranger」であるよう演出された芥川の前にもう一人同種の人物がいるのなら、それは同族に他ならない。

 漠然とした孤独の中にいる者が見出す同族、柔らかなユニゾンがこの有って無いような物語を紡ぎ、緩やかに世界を回す。
 同族だからこそ遠慮なく芥川はルールーを作品構想に幻視し、自分の選んだ本を読ませようとし、自分にも無い現実と戦う力を育てようとする。
 そしてルールーは死に、同族を失った芥川は傷心の内に物語を閉じる。

 改めて考え直す。
 芥川の目に同族の「stranger」であったルールーは、果たして芥川の思うような「stranger」であったのか。
 それは違う国違う社会で暮らす「stranger」が、自ら訪ねた異郷に住む異国の民にそうあって欲しい姿の投影ではなかったか。
 そう考えると美しい映像と練り上げられた完成度の高い文言が、一斉にこちらを向いて問いかける。
 その年代の上海というモチーフに対して、現代の私が望む姿がこの完璧に美しい映像であり、社会格差が社会構造を崩していく前夜という視点であり、国境を越えた支配被支配の有様ではなかったか。
 ヒロイズムを求めるエゴイスティック。
 時代と国とに対する無自覚のバイアス。
 オリエンタリズムという、西洋的な特別視と偏見。
 思ったようではなかったルールーの死という結末に、そもそも自分が「何を期待していたか」の検証が迫られる。
「ストレンジャー」から見た基準で完璧に作られたものに感じる美しさ。
 身勝手で無力な「ストレンジャー」である芥川は、紛れもなく観客である私なのだと思います。
 しかし芥川と観客の結びつきもまた、丹念に共感と反感を繰り返すことで切られていて、芥川をアバターとしないよう導かれている。
 観客は芥川の理解者になり得ない。
 それ故に芥川同様こちら側も孤独に切り離される。

 ラストシーンは清明な風景に響くテーマソング、提示される6年後の芥川の末路。
 観客に残されるのは漠然とした孤独だけ。
「ストレンジャー」という語をタイトルに選ぶ適切さ。
 ああ、なんたる文学であったことか。
 純文学を表すにはかくも美しい映像でなければならず、また美しい映像を単なるイメージ集から立ち上げるには純文学の香りが要ったのだ。両者の関係を繋ぐ音がまた良かった。
 純文学のジャンルであるけど同時に流行作家である芥川の作品は、芸術だけではなく娯楽でもある。その本質を崩さずに映像化できれば、考えさせるアート性を持ちながら同時に娯楽作足り得る。
 美だけでなく、異文化や他者の理解に対するメッセージだけでなく、そして美でもメッセージでもあるこの完成度の高さ。
 75分のショートフィルムと思えぬ充実感、テレビドラマというよりはむしろ映画のようであり、アート系のミニシアターで上映会などしたら喜ばれそう。フライヤーがロビーから瞬時に消えるだろうね。パンフレットが欲しい。
 なるほどこれがNHK自慢の4K8Kの実力。ありがとう受信料。

3:自由課題・ルールーを掘り下げる。

 さて、ここからは感想を離れた個人的な考察になります。
 ルールーは本当に聾唖であったか、男娼であったか。
「君たちが社会を変えるんだ」と芥川に言われた直後に政治集会で命を落とすルールー。
 単に字の読み書きができるだけでなく、言葉の意味を芥川の想定以上にわかる子であった、そこがポイントでしょう。何なら口に出さないだけで、日本語も解していたかもしれません。
 娼館で匿われていた活動家(若しくはその身内)という可能性はどうでしょう。
 何ならむしろ政治集会を開く側の人物ということだってある訳で。
 だとしたら集会に出て乱闘の巻き添えで偶然死ぬというより、むしろ積極的に狙われるおそれのある身の上です。
「何であんなところに」と嘆く林黛玉の言葉の意味が変わってくる。
 本名を源氏名で隠し、聾唖と偽れば声も隠せる。娼館や宴席は情報が落ちやすく、言えず聞けずの「何もできない」存在は油断が誘えます。
 煙草の店は遠かったのではなく、活動家としての用事が入って戻れなかったとしたら。又は外へは出られず他の誰かに使いを頼む他なかったのだとしたら。
 無くもないかな、と思うのです。
 血を浸す為のビスケットを持ち、確実にルールーの血を吸わせてきた玉蘭。彼女はなぜルールーの死を見届けることができたのか。
 かつてボスが処刑された時とは違い、集会に出かけた時点では普通ルールーの死は確実ではない。仮に死体の引き取りができない、されない可能性を考えても、そもそもそういう場合店に知らせは届くのかという問題もある。
 他の死人や怪我人の血と混じらず、ルールーの血を浸すビスケットですよ。
 玉蘭は予めルールーに命の危険があることがわかっていて、様子を見に行ったのでは。
 そしてその血のビスケットをルールーが死んだ当日に仲間だけでを分け合うのではなく、芥川を客に含むお座敷を待ったらしいその配布のタイミングの意味を思う。
 もの言いたげな玉蘭の瞳に何か表に出せぬ事情を見るならば。
 血のビスケットで共に死を悼むことを許された芥川は、ルールーから見てもやはり何かしらの同族だったのかもしれないなと、思っています。
 好意、なのか共鳴なのか。
 好意が無い筈はないのですが、好意のみとするには接触の時間が少な過ぎます。芥川がルールーに「ストレンジャー」としての関心を持つなら、ルールーの側だって「ストレンジャー」への関心があってもいいでしょう。
 芥川の宴席の様子は、あまりに無防備で純朴で、そのくせ紳士的です。そもそもこの場合の芥川は、松田龍平の容姿を持つ美男であることも忘れてはいけない。
 芥川自身は宴席で偽の占いに弄ばれ、煙草の使いに金が足らないと言われれば財布の中身を晒して直接取らせる物知らずのくせに、ルールーを捕まえて「本を読まなくてはならない」「そしてこの国の社会を変えるんだ」とか言う訳です。
 閨に指名する気も口説くつもりもなく、男娼を蔑むでもなく、それでも卓から抜けてわざわざ自分に言いにくる訳です。
 ルールーは煙草を買ってくると約束したら、きちんと買って渡すべきだと思っている性分の男です。
 与えられたものには返さねばならないと。
 これはこの危なっかしい異国の男に何かしら見せてやらねばならぬと、使命感を得てしまうのはあるんじゃない……?
 聾唖の男娼で大したことのできぬ奴、という姿が仮の物であるならそもそも「文字が書ける」ことを明かすのは多少とは言えリスクのあることです。
 それでも事情の説明をするべきだと、客に対して身の信用を大事に取れるのは一つにプライド、一つに教養です。
 ルールーに「男娼」という身の上がもう一つ染まっていない証拠でもあります。
 街を見て、取材先で思想や教育の中にある政治の影に触れる内、政治に対する自分の無関心を疑問視しはじめる芥川は、若き政治活動家の目にどう映る。
 民を思う政治はこうしてつかみ取っていくものだ、と見せたかったんじゃないのか。
 芥川がルールーに本を与えたかったのと同様、ルールーは集会で何らかの成果を人づてにでも芥川に。
 それはそれでルールーのエゴであり、その反面として志の美しさでもあるなと思うのです。
 本は渡せなかった、政治的な果実を持ち戻ることもできなかった。
 果たされなかった約束の代わりに、芥川はルールーを悼むビスケットを受け取ることが許される。
 ルールーの思いを知っていたのは、女たちだけだからです。

 異邦人を見るまなざしの交叉。
 完全に同一ではない、それでも同種同族の二人が互いの内に見る夢が触れ合わずに響き合う。
 美しく、孤独で、それでも後味が悪くない。それは同質の者が存在する故の柔らかさであり、重たい話を完全に共有しない異質である故の優しさであるように思うのです。

 ところで放映前後、私を含めて複数の人がルールーの外見に森川久美「南京路に花吹雪」の黄子満のイメージを重ねています。
 時代と舞台を本作と同じく戦争直前の上海に置く、心理描写の繊細なスパイアクション。その物語の中心に在り、両国の政治活動に心身を引き裂かれて惑う美少年が黄子満でした。
 誰にでも通じる程膾炙した漫画ではないけれど、全くの無関係だ気のせいだと切り捨てる気がしない程には外見が似ています。
 オマージュ、ということはあるんじゃないかと。
 活動家が身を隠す仮の姿として「聾唖の男娼」があるとする私の考察が黄子満という既知のキャラクターに影響されたものであるのは確かです。
 キャラクターが同一ではない以上、ただの妄想でありミスリード、邪推とも言えるかもしれない考察であるのは否定しません。
 けれど、アイデンティティを国に持てず、有能である故にあちこちから求められ、けれどもどこの国からも余所者である黄の嘆きは「ストレンジャー」の世界ととてもよく似合うのです。
 ルールーが単にかわいそうな聾唖の男娼でなかったら救われるな、という願望がまずあります。
 また黄子満の背後に血のビスケットを通じて大切な人と一体化し、清明なラストシーンの風景で送られる様を重ねると、これもどこか救いがあるように思います。
 元さえ生かす本歌取りの趣向が、もし妄想でなかったらうれしいな。
 余談でした。

(※noteに投稿した記事ですが、バックアップとしてこちらにも上げておきます。)

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