「リチャード三世」感想文(ネタバレ/脚本と演出のこと)2017/11/01

 くどいようですがもう少し。
 底本である木下順二訳「リチャード三世」(岩波文庫)を手に入れ、台本とするのにカットした部分が7割と聞きました。パンフレットもしつこく読み返しました。そうすると1回目の全体の概要で書いた話にもう少し捕捉で書きたいことができまして。
 舞台の演出と脚本について。

 今回のプルカレーテ版において「リチャード三世」は戯曲「リチャード三世」から「あるリチャードのおはなし」に絞ったのだろうな、という考えは既に申しました。イギリスの歴史という要素を除いて、イギリス以外の土地に住む人間にも自分に縁ある話と受け取れるよう細かく取捨選択して再構築したのだろうと。
 パンフレットのプルカレーテ氏のコメントから言えば「人間の本性に潜む狂気」ですね。
 狂気はどういう形をとって表されるのかというと、それはリチャードの謀略であり、マーガレットの呪いであり、そしてリチャードの犠牲者による逆襲としての悪夢であり、リチャードを孤独に追いやってきた人(リチャード本人を含めて)の残酷さだと考えます。
 底本をシナリオにするに当たって行われた、台詞ひとつひとつの中にまで及ぶカットが繊細で丁寧にされたものだということは劇の流れに引っ掛かりがないことでわかります。
 でも残存3割です。日本酒の原料米を削った後の白い粒、あれだけ見て咄嗟に米だとわかりますか。損耗率7割となってまともに動くものや組織がありますか。話だって本来そのはずです。
 演出の本旨に沿い、かつ「リチャード三世」としての景色を失わない為に演出で逆に強化した部分があるだろうなと考えました。

 まず、舞台美術。
 天井まで届くスクリーンに映し出される石またはコンクリートの映像。色々な壁に見立てられていましたけれど、いずれも閉鎖的な空間であるのは間違いないですよね。物理的に狭く、そして人間関係としてもごく狭いところの物語だと感じることができました。
 それに登場人物も削って、役も兼務したり或は別の役に置き換えていたりもしてあります。余計に狭い。
 オールメールだとやはり同質のもので揃えられた統一感がありますし、そこに一人だけ男装女子の「代書人」が加わることで境界線というか枠のようなものが見えて来ます。男女混成の親近感とも、男子のみ、女子のみの舞台にある単一性のフォーマット故の自由な空気とも違うんですね。
 ひたすらの、枠の強化。
 狭く近い関係だからこそ発生する暴力的なマウンティングの連想が働きます。

 そして、もうひとつ強めたところが「呪い」かなと。
 木下訳の特徴として、音として聞く響きのよさがあります。
 台詞としては柔らかく、詩文としては美しい。
 つまり、呪いの言葉も美しく印象的です。そしてマーガレットの呪いは陥れられ破滅していく人の姿を糸のように繋いでいきます。
 彼女の吐いた呪いに、破滅の姿が対応していると印象は強くなりますね。処刑されていく人々がマーガレットの呪いを思い出し嘆き叫ぶシーンの後ろにはマーガレットが無言で登場する。それがまた印象を強くします。
 ところで彼女がリチャードに向けた呪いの一節はこうです。
「生きてある限り味方を裏切者と疑い続け、最悪の裏切者を最良の友と信じ続けろ」
 味方で友。
 リチャードの。
 底本の中でリチャードが親密な友と言えるような、少なくとも親密な友の立場に置いておかしくもないような相手を探すと、それは確かにバッキンガム公しかいないんですね。
 色々な相手に対して偽りの親密さを演出するリチャードですが、確かに一番一緒に行動していてかつ本人の居ないところで陰口言っている時も評価が高いのはバッキンガムなんです。
「おれの分身、おれの枢密院だあんたは。おれの神託、予言者、本当の身内だ。子供のようにおれはあんたの指図に従うよ」
「永いあいだ疲れもせずにおれと歩いて来てくれたが、ここらで一息入れたいというのか?」
 こうした台詞からすれば、確かに訣別までのバッキンガムはリチャードの友というか腹心、ある種の相棒と言えるんです。
 いざ王座についた途端にそこを奪われる可能性に怯え始めるリチャードは一種のパニック状態にありますから、相棒なのにわかってくれないし助けてもくれないというのは十分冷たい仕打ちで、そこにバッキンガムの裏切りを見るんですよね。
 そしてリチャードのパニックに「エドワードとヨークを殺せ」という命令で巻き込まれるバッキンガムは、その命令を受けた自分の苦悩にリチャードが報酬という形できちんと向き合ってくれないことにも、自分以外の男にその秘すべき難題をあっさり頼ったことにも傷付く訳で。
 処刑されるバッキンガムが自分の手を握るリチャードに気付いて抵抗せず死んでいくのは、それが明らかな特別扱いだとわかるからで、おそらくは自分の死に傷心するリチャードの想像までつくからですね。
「最悪の裏切者を最良の友として信じ」ているのではないかというリチャードの疑いが、バッキンガムの死と同時に「味方を裏切者と思い続け」ていた後悔に転じる鮮やかな呪い。
 この「友」を喪うという演出を入れることでマーガレットの呪いと事態を整合させ、かつそれをリチャードの致命的なダメージとして孤独と狂気、その先の絶望へという理解の流れを繋ぐ。
 呪いという、それそのものが既に狂気を帯びたものを支えに「リチャード三世」としての枠を崩さず「人間の本性に潜む狂気」を描く演出かと思うと、ため息しか出ません。
 3割の台詞でシナリオを成立させる演出のコントロール、何て職人芸。面白かった。

 それにそれぞれの登場人物について、細かいところは役者さんに合わせて作ったんだろうなと。
 酷薄な裏に陽気で繊細なところのあるリチャードは佐々木蔵之介でなければならなかったでしょうし、物語を繋ぐ糸・強く優美なマーガレットは今井朋彦ならではであり、器用で素軽く可愛いバッキンガムは山中崇のなせる業でしょう。勿論他の役と役者さんについても。
 役者さんそれぞれの技量と身体能力に合わせて、最大限できることのオーダーが入っているように見えます。細密。

 一方、私浅学にして見たことがないのですけれど普通の「リチャード三世」は今回ばっさりカットされたリチャード戦死のシーンを盛大に盛り上げるのが定石なんですね?王位を得た果てに望むのが一頭の馬、という皮肉な末路。他の人の感想など見ているとそこが物足りないという方も結構おられる訳で。
 絶望したところで道化として死ぬリチャードは今回の演出の本旨に合っているというか、私はあの上戦死までやったら却って焦点がぼけると思うのです。けど自分が神々しいまでのリチャード戦死を別の舞台で見ていても、やはりそう言えるかと言われるとなぁ……。
 ただ、悪の主人公がむごたらしく死ぬシーンを求める観客心理というのも、当然演出の想定内でありましょう。
 銃型のライターを本当の銃に変えるのは観客の意志かもしれないと考えると、見ている誰の本性にも潜む狂気をユーモアと優しさに包んだ演出で見せてもらったのだなと思うのです。
 誰しも狂気を抱えていて、狂気を抱えているのは自分だけではない。
 狂気というグロテスクさは、同時に自覚すれば人に優しくも自分に前向きにもなれるように思うのです。
 善をも愛することができるのだから、いわんや悪を於いてをや。
 訳者の視点が入った翻訳、イギリス人でない役者、イギリス人でない演出家の作る、純粋ではないからこそできる「リチャードのおはなし」の精髄。

 見に行けたのは幸いだったなぁと、考える度に思うのです。