鎌倉殿の13人:27回を見る前に。2022/07/17

 頼朝が死んで、いよいよドラマのタイトルにもある「13人の合議制」が始まる。
 この期に及んで改めて思うのです。
 幕府、というこの先1868年の明治維新まで至る政治形態は、まだできたばかりだということ。
 前例がない組織が、唯一の頼りである創建者を失った。
 現代から振り返る目には当たり前の権限移譲ができる訳がない。

「征夷大将軍」という官位と治安維持の権限を得て、全国の所領運営を委任された形にして実質的な政権を握る。
 将軍の下の機構が違いこそすれ、700年以上続く政治形態が決して当たり前ではない時代があった。
 頼朝だからこそ将軍と官僚による政治を行うことができ、それを頼朝でなくても引き継いでいける形を作り上げていけなかったら、幕府という形はほんの一時のムーブメントで終わった筈である。
 武家に対する臨時の最高位に過ぎなかった「征夷大将軍」を統治権に結びつけたのは頼朝の政治力があってこそ。
 頼朝の動きやすいように作られた組織、後を継ぐ形も何も前例がない、誰もが認める突出した有力者のいない鎌倉。
 福原に都を作りきれず宋銭の流通も定着させられなかった平家の後を追う可能性は十分あった。

「俺より強い」と認めさせることが支配権獲得の絶対条件だった板東において、絶対権力者に上り詰めた男が死ねば、世襲よりむしろ新たな最強の男を選ぶ発想の方が当たり前だったろう。
 しかし求心力の核になれそうな強者は皆頼朝が殺してしまった。
 互いに「昔は俺の方が偉かった」と思う程度の強さしかない。
 同時に今のいいポジションは手放したくなかったり、むしろより上のポジションを狙っていたりする。
 その上自分が面倒な仕事は誰かに押しつけたいのである。
 しかし対等以下の相手に偉そうな態度は取られたら屈辱なのである。
 屈辱を晴らす最上の手段は相手の殲滅である。
 西の奴らに支配されない板東武者の国を作る、頼朝の死を夢への転機と呼ぶにはあまりに救いのない。

 地獄の扉が開いた。説明なしに見る側が直感させられるのは、これまでの脚本の積み重ねだと痛いほど思うのです。

 頼朝以前の板東では既にない、13人並列の勢力図。
 戻りようのない頼朝以前の板東のやり方しか考えられない者が、いずれ我慢はできなくなる。
 京都から来た貴族出の官僚たちは板東者を抑える武力を持たない。
 それは政子と小四郎の姉弟以外に幕府の守護者はいなかろう。

 政子は頼朝への愛の他、京都の朝廷に対していまだ鎌倉は影響力の脆弱な段階にあることを大姫の件で知っている。御台所の責任の重さを知っているからこそ、放り出すことが取り返しのつかないことになることを察することができる。
 小四郎は武士のくせに仲間のつきあいや武芸の競争より倉の米勘定が好きな変わり種であり、それ故に戦がないということの利点がわかる。頼朝の側近として無慈悲な処断をすぐ近くで見ているから、その死の意味もきっと引きずっている。感情に蓋をする、ということはその場しのぎの先送りに過ぎないからだ。

 2人とも、板東の武家社会からは最初から少し浮いていた。
 違うからこそ頼朝を運命として選び、だからこそ頼朝の遺した幕府の守護者になるのはわかる。
 わかるが、悲壮だ。
 天が頼朝を愛したというのなら、頼朝を通じて幕府という制度を継続するよう天に選ばれてしまったのではないか。

 物心付いた時には頼朝が覇者だった、次の世代が既に育っている。
 血筋以外に頼るもののない頃の頼朝の状態まで戻されてしまっているのだけれど、頼朝に従う御家人の姿しか見たことのない頼家と、小四郎の溺愛の元もしかすると父親以上に「少し浮く」道を歩き始めている頼時、頼房はその少し浮くところを地に戻すことができそうだ。
 次の世代は次の世代の修羅を生きなければならないことが確定している。
 それでも「少し浮いている」部分にしか未来が見えない。

 悲壮美に溺れず、つまり「闇落ち」することなく、むしろ落ちる方が普通だろう艱難辛苦を越える強さは「少し浮いている」からなのか。
 そこが哀しくも可笑しくも美しくもあるんじゃないかな。
 闇に落ちるより遙かにハードな道のりを、覚悟を決めながらも楽しみに見ていこうと私は思うのです。

「鎌倉殿の13人」:No.2の死について2022/07/31

 梶原景時が死んだ。
 ドラマが始まって以来、もう何人もが非業の死を遂げているのではあるのだけれど、やはりこれはひとつのターニングポイントなのだと思う。
 頼朝が死んだことは勿論物語を大きく動かす要素ではあるものの、むしろ頼朝という人そのものを送った感じであり、これから時代が動いていくひとつの予感という程度に留まった。
 これに対し景時の死は、頼朝の死に始まる混乱が穏やかには収まらないことが確定した帰還不能点である。
 これまで、そういう物語の流れが決定的になるポイントで描かれた死はもうひとつある。
 上総広常の謀殺である。
 山木攻めから始まった頼朝の戦争が、上総広常の死をもって板東武者に対する統率を強め、平家の滅亡と鎌倉幕府の成立へ向けて流れていく。
 挙兵序盤の局面を過ぎ、御家人にも頼朝にも油断が出て互いを軽んじる部分が出てきた(この象徴が頼朝と亀との関係であり、千葉や岡崎など御家人による謀反の計画でもある)危機を乗り越える為に、罪無き上総広常を切った。
 引き締めと求心力の強化を経て、頼朝は宿願の平家打倒を果たし、板東に政権を得た。
 この流れを思い出しながら、景時の死を改めて振り返ると、いくつかの共通項が見いだせる。
 ひとつは、御家人と鎌倉殿との関係に不安定な要素があること。
 戦の中弛みとも言える頼朝の場合と、代替わりで試される頼家の場合とは原因に違いはあれ乱れがあることに変わりはない。
 そして、御家人に対し鎌倉殿が見せる不信の種が女性問題であること。
 最後に鎌倉殿が御家人に対する姿勢を改めて見せる必要がある、その中で行われた「No.2」に対する処断であること。
 この三つの共通項の内容を頼朝のときと比較することで、頼朝の成功とは逆に今度は頼家の破滅に繋がるターニングポイントである、ということが浮かび上がる。

 戦の中弛みなり、代替わりなり、これからこの鎌倉殿は御家人達をどうしていくのか、ということを示して旗色を示すべき下地があった。
 大体腕っ節と気の強さを好しとする板東武者の気風の中、女性問題が面目に影響するのはわかる。
 だからこそ今、強い男である証明が迫られる。
 頼朝が地元の漁民の女である亀に手をつけたのと、頼家が配下である板東武者の妻に手をつけたのとでは、「女にだらしない」ことは共通だがイメージダウンの大きさが違う。
 御家人の(あえて言えば)資産に手を出して奪う棟梁だという姿だからである。
 しかも頼朝への忠勤をもって知られる安達盛長の息子の嫁であるとなれば、尚悪い。誰もが知るほどの忠誠を尽くしてなお家の中へ手を出され、逆らえば「首打て」まで言われるのである。
 この鎌倉殿に所領は本当に安堵してもらえるのか、疑問が出る。
 強さを示し、恐怖で引き締めを図る為、景時が広常の先例を思い出すのは無理もない。
 しかし結城朝光では足りない。
 むしろ結城は三浦の囮であり、連判状という形で御家人達にひっくり返されてしまう。
 この場合において「景時の処断」という決定は「広常を切る」に匹敵するかといえば、ならない。
 連判状の勢いに便乗し、肯定する形は「数で押せば通る」ということに他ならないからである。
 これでは争いは収まらない。
 収められない鎌倉殿への信用は落ちる。
 御家人からの信用が落ちれば幕府の力も頼朝一代で終わるし、朝廷の巻き返しに抵抗できるだけの大義名分を持てる勢力は既にない。
 ここから承久の乱までの混乱と危機が始まる、その転機が景時の死と考えていいだろう。

 頼家は父に倣って、御家人全てを信用しないと言っている。
 しかし、安達に何故手を出してはいけないかをわからないように、時連が近習の最年長であることを気づかないように、頼家はそもそも御家人それぞれの見分けがついていないのである。
 関心が無いまま「疑う」ことだけを覚えてしまったので、それぞれが抱えた事情も、父との関係も、全て知らなくてもよいことに分類されてしまった。
 子供なのである。
 むしろ子供だからこそ、景時は自分の背後に庇って出さないつもりでいた。そこを私欲だと疑われてしまえばそれまでだ。
 景時の失敗でもあり、跡継ぎの育成さえ自分の地位を危うくする疑いを持った頼朝の、他の御家人とのつきあいより若君の抱え込みを図った比企の失敗でもあるのだけれど。
 頼家の未熟と繊細さも含め、総じて「不運」とも言える。
 つまり神仏の加護は確かに頼朝を去り、頼家の上には残らなかったのである。

 頼朝が神仏の加護を得た男ということを、これまで誰よりも尊んできたのは景時である。
 広常を切るときも双六を通じて天に問い、頼朝と義経が共に神仏の加護を得ているからこそ両立しないと読み、平家が滅んで戦が終わった今は義経を排除すべきと率先してその死に関わった景時である。
 後鳥羽上皇の文が、義経に向けられた後白河法皇の寵愛と同種のものであることに敬虔な運命論者である景時は何を感じたか。
「なまくらで終わりたくはなかった」
 刀の価値は使い手の価値と思う景時の自嘲は頼家に向ける呪詛となる。
 義経が行くなと釘を刺された奥州へ向かうように、景時は京都へ武装して向かう。
 それを「討ち死にの希望」と義時に伝わるのは、義経に対する書状を共にしたからこそのことだろう。

 ところで、景時を始め「神仏に愛されている」という頼朝の特性が多くの板東武者の心を引きつけたのは何故かと言えば、死に近い時代の中でも戦が身近な武士には殊更「加護」が魅力であったからだ。
 頼朝の敬虔さは、死に対するおそれの強さでもある。
 頼家に敬虔さがないのは、危険な戦が減った証でもある。
 だから義時の賢い愛息にも、戦って死ぬ誇りを求める気持ちは当然には伝わらない。

 梶原景時の死は、上総広常の死に定まった頼朝の神話の終わりであり、頼朝の息子達が加護なく失われていく物語への流れを定める転機である。
 景時が忠実なのは、血筋ではなく運命だ。
 私心のなさは冷淡で、不憫を見る者は数少ない。
 平家打倒を果たし、徴税徴兵権は全国に及び、その大きな視野で行く末の希望を見る者はさらに少ない。
 夢はなく、危険も薄く、それでも現状がこれより上向かないことにも不満がある。
 それが今の鎌倉である。
 守り導く神仏のない、人の世の戦いがこれから始まるのだろうと思う。