「ラストマイル」:筧まりかの話をしよう ― 2024/12/01
1:始める前に。
筧まりかの話をします。
という前提で「誰の話ですか」と思う人は一旦「ラストマイル」を見てきてからにしてください。
物語の重要人物ですし、山崎佑と筧まりかの関係は最初は何の予備知識も持たずに見てほしい。
申し訳ないですが、見た後で覚えていたらまた見に来てください。
さて。
「ラストマイル」は約2時間(上映時間129分)の中に人数もたくさん、連続爆弾事件に関わる現場もたくさん、詰め込んでいるので登場人物一人当たりの持ち時間がそんなに多くありません。
だとしても、その短い登場時間の中に、他の人物の関係の中に、どういう人だったかの設定はにじむ。
筧まりかはどんな人だったのか。
山崎佑は何故まりかとの結婚を前にベルトコンベアの上に飛び降り、まりかは何故爆弾事件を起こさなければならなかったのか。
「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」
その言葉にある「責任」とは何を指すのか。
彼女の行動と遺留品から、「筧まりか」を追いかけましょう。
2:筧まりかと佑の話をしよう。
まず、基本的な情報の整理から。
筧まりかはデイリーファスト社の西武蔵野ロジスティクスセンターで働くチームマネージャー、山崎佑の婚約者であった。
そして結婚を控えて山崎佑がセンター3階から飛び降り、植物状態になったことを受けてデイリーファスト社に対し責任追及を求めるが、佑の父が責任追及を放棄したことにより頓挫。
その後も諸方に手を尽くし、デイリーファスト米国本社への談判へ動く過程で舟渡エレナとも接触している。
「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」という言葉はこのときにエレナが聞いたものである。
しかし結局いずれも「お気の毒ですができることはありません」以上の回答を得られないまま5年が過ぎる。
時期は不明であるが、爆弾事件を起こすに際してはデイリーファスト米国本社へ予告のアクションがあった模様、しかしこれも黙殺される。
爆弾の予告と前後は不明ながら、デイリーファスト社西武蔵野ロジスティクスセンターへ荷造りと出荷を行う「ブルータグ」のスタッフとして勤務、加えて物品出品者として登録。
「デイリーファウスト」の偽CM及び爆弾1ダースの発注、仕入れ、そして実行。
自身は最初の事件の被害者を偽装し、性別不詳4つに破断した焼死体となって死ぬ。
その少し前、山崎佑のマンションの防犯カメラに映る姿が生前最後の姿となる。
享年およびデイリーファスト社以前の経歴は不明。
以上が「ラストマイル」内における「筧まりか」の行動履歴です。
ここから何がわかるか。
5年にわたり、山崎佑を諦めなかったねばり強さ。
そしてデイリーファスト社に接触する際舟渡エレナという糸口を見つけ、偽CMや爆弾の発注先、戸籍を売るホームレスも見つけている情報収集力。
更に偽CMと爆弾の値段併せただけでも200万円超(これに最低でも「里中浩二」の戸籍の買い取り及びアパート入居一式が加わる)を支払えるだけの貯蓄。
連続爆弾事件の手口を見つけ、計画を練り上げるだけの頭脳。
やりきるだけの行動力と胆力。
業種の特定までは難しい、けれどどこかの会社の「ホワイトタグ」級の職にあった人ではないか。
親兄弟がいるのかはわからない、仮に居たとしても存在感は極めて希薄です。
彼女の執着は山崎佑ただ一人にある。
法的に家族になれなかった、おそらく見舞いにいくことさえできない他人の為に、彼女は5年も尽くした。
その筧まりかの人となりを恋人だった山崎佑が理解していないとは思えない。
自分の死後「家族」という絆に縛られてまりかが傷だらけの法廷闘争に陥ることは想像できたでしょう。
佑が結婚前に飛び降りることを選んだのは、まりかを巻き込まないためだったのではないでしょうか。
しかしもう一度まりかの性質に視点を戻せば、そもそも恋人が精神的に追いつめられて「ブラックフライデーが怖い」と呟く様を放っておいたとは思えない。巻き込まれることもむしろ望むところだろう。
彼女はパワフルである。既に退職か最低でも休職を勧めるところまではしていたのではなかろうか。デイリーファスト社に対して取ることのできる法的措置を検討するくらいまでしていても私は驚かない。
佑の退職や休職、そして病気療養の想定はまりかが結婚を躊躇う理由にはならなかっただろう。
筧まりかには、おそらく佑ひとりを養うだけの稼ぎはあったろうから。
ここで一旦山崎佑についても考えましょう。
山崎佑の部屋に残された服は、捜索に入った伊吹の目にも高価とわかるものです。
ここを手掛かりにできそうです。
センター内の実務を取り仕切るチームマネージャーが薄給だとは思わないけれど、収入に比して少し高めの服を買っているのではないか。
それは趣味だからかもしれないし、ストレスの代償に高い買い物を許容しているのかもしれない。
それでも他人の目や思惑を割と気にするタイプだったのではないか。
いわゆる「いい人」でいたいタイプ。
それも高い服に見合うようになりたい向上心と野心を抱えてなお「いい人」と思われたい完璧主義。
チームマネージャーの仕事について、梨本孔は「やることをやってれば責められることはない」と言う。
しかし孔は前職の日本式ブラック企業のすり潰しに懲りて「いい人」を一切やめた男です。
岡田将生なのでわかられにくいけれど「クセのある服」は彼の大事なキャラクターデザインの要素に上げられています。
つまり2年も正気のままセンター内「ホワイトタグ」最古参として梨本孔が勤務できているのは、自分の防衛を第一に、傍目も他人の都合も気にしないからだという結論が出ます。この仕事に適応するにはそうでなければならない。
じゃあ逆に「いい人」であることが捨てられない佑がこのチームマネージャーの仕事をやるとどうだったのか。
チームの人間関係に配慮しようとすれば際限なく調整と追加の仕事が降り、制限時間と効率の数値に追い回されながら管理され、目標未達のミスに無能感を得て、短期間で精神が限界に至るのではなかろうか。
仮定に仮定を重ねた妄想だと言っていい話なのですけれど。
日本式の「いい人」。つまり他人を気にして配慮で身を削る優しい男が山崎佑であった場合、病んで仕事を手放し職場に「迷惑」をかけ、恋人であるまりかの世話になる道はもしかして救いには見えなかったかもしれない。
アイデンティティの喪失になってしまう。
これに更に佑の父を重ねて考える。
最初はまりかを伴って法律事務所を訪れたのだから、関係は良好だったように思える。
しかし事情は知らないが法的追及を諦めた山崎父が、諦めないまりかを罵る「あんたの所為だ」は、傷ついた父親から思う優しすぎる息子に対して慰めより共に戦うのに向いた「女らしさ」に欠く嫁への不満ではなかったか。
「あんたの所為だ」が刺さってしまったことが「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」という問いに繋がるなら、まりかにも薄く自分の所為だと責めることがあるからではないでしょうか。
まりかが力強く手を差し伸べたからこそ佑を追い詰めた、と思われる余地がここにできてしまう。
山崎佑は楽になりたかったし、恋人の重荷になりたくなかった。
飛び降りたらラインが止まる。
それだけで頭がいっぱいになった佑に「止めてどうする」の考えはなかったろう。
計画性があったとは思えない、「止めない」ことに消耗した果てにやってはいけないことの全部をひっくり返して消えたい衝動によって3階から飛ばされたのだ。
その結果、佑は死にきれず楽になれなかったし、法的に戦える地位を与えられなかったまりかは佑の為の戦いを諦めきれず、無理筋のゲリラ戦に突入して命を落とした。
佑本人が言い残したように佑は「ばかなことをした」のである。
話を筧まりかに戻しましょう。
法的な配偶者でなかったから、まりかが佑の代理人になることはできない。だからこそ佑の父に、エレナに、必死で協力を訴える他なかった訳です。
法的根拠のない立場での、法的な形に整えられていない後ろ盾もない道義的な要求というのは交渉力が非常に弱い。
佑の父はデイリーファスト社への法的措置を諦めてまりかを捨て、エレナを通じての本社へのアプローチも「お気の毒ですができることがありません」の回答しか引き出せない。
訴える資格のないあいまいな責任は、デイリーファスト社の逃げ道をふさげない。
「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」
まりかの言葉には、佑を奪われた怒りと佑との関係を否定され続けて一層深くなった悲しみがにじみます。
この言葉を「私の所為だっていうんですか」と言い換えてしまうときっと間違う。
佑を害したのは佑本人である。直接の責任は佑にある。
しかし佑を追い込んだのは、と二次的な責任に踏み込んだとき、浮かび上がるのは個人の小さな荷物が集積された「世界」というべき流通量そのものです。
カートに入れてぽち、そのクリック音が現実の荷物の数となる。
そのひとつひとつ、患者の命が掛かる医薬品や子供が初めて買うママへのプレゼントにも含まれる「責任」は、発注の数に問うか金額に比例すべきでしょうか。
ひとつひとつに「責任をとって」もらうことが非現実的とすぐわかる膨大な荷物の数、その膨大さに「山崎佑」という犠牲の輪郭が消えていく、無視されるのが確定するその絶望がこの言葉ではなかったか。
そしてその膨大な荷物の数を「止めない」「全てはお客様のために」と責任をパスボールしながら見ないふりをして、上層部は上層部で現場とは別のベンチマークとノルマに追われ続ける。佑と変わらない限界な人たちで動いているデイリーファスト社の状況の理解もまりかに一層やり場のない思いをさせただろう。
彼女のデイリーファスト社に求める責任とは、損害賠償や具体的な待遇改善措置というより、ただ社員が手すりを乗り越えて飛び降りる程精神をすり減らした事実を認めて忘れないという道義的な責任であったように思うのです。
筧まりかがどの時点で「ブラックフライデーを狙った無差別爆弾テロ」という手段で膨大な荷物を発注する「世界に責任を取らせる」ことにしたのかはわからない。
ブラックフライデーの膨大な荷物をさばく為には大量の人手がいる。
デイリーファスト社は異物の持ち込みや盗難の持ち出しを防ぐ方法を厳重にしている代わり、人そのものの審査は甘い。孔は前職の詳細を隠したまま就職できているし、エレナは本社の人間だと周囲に知られないまま着任している。
そこに他意はない、大量の人手を集め、労力だけを抽出して管理する為のただのシステムだ。
しかし筧まりかが「ブルータグ」のスタッフとして、物品出品者という納入業者のような立場として、全く見咎められることなく登録されたことをどう感じただろう。
ことあるごとに本名で対処を訴えてきた筈の名前が何も警戒されていない。爆弾予告を出した後でも普通に勤務が続けられている。
ちょっと変わった、同姓同名の少ない名前なのにも関わらず、探されていない。
「筧まりか」が無視されるのは、山崎佑が忘れられていることと同義であっただろう。
そしてその仕打ちは彼女に「予告はしたがそこで止める」という選択を失わせたように思う。
筧まりかは法的な保証を持てなくとも山崎佑の家族として、山崎佑が過去のものにならないよう主張し続ける責任を自ら負っている。
デイリーファスト社の答えが無視ならば、実行する以外の道はなかった。実行しなければ今度こそ「山崎佑」のケースは終了の判を押されてファイルごと削除されてしまうから。
そして他人の遺体に紛れ、もう存在しないのに探し続けられる幻の犯人となって事件を終了させないことが筧まりかの選んだ「責任」の形だった。
山崎佑の為に命を張ることでしか佑との絆を世界に証明できなかった、悲しい人の物語。
3:普通の生活がある筈だった。
筧まりかや爆弾の製造を請け負った春日は、本来は皆普通の、まじめでよく働く人たちでした。
まりかはブルータグスタッフとしても成績優秀だったし、春日は爆弾の不良品もきちんと伝え、120万の報酬で遊ぶことなく「借金の返済と母親の葬式」という身辺整理をする。
特別な顕示欲や残虐性のある、そんな普通でない犯罪者は自分と関係ないと切り捨てられない人たち。
何事もなければ犯罪に手を染めることもなかった筈の、普通の人だ。里中浩二の人となりはわからないが、ホームレス生活も相当窮乏してなければ戸籍を売るなんてことはしなくてよかったろう。
犯罪者である彼らは明日の自分かもしれない、という設計と同時に、本作品はその選択を肯定しない。
筧まりかが自分の始末にかかるときには恐怖と緊張で顔はひきつれ、遺体に残る生体反応は絶息するまでの苦痛を物語る。それでも自分の生存を偽装し続けることはできなかった。
報酬で身辺整理が済んだから、死刑で自分も片づけば丁度いい、とばかりの口を利く春日はやがて「逃げ切って欲しいなあ」と共感した「ハッピーちゃん」が自分の爆弾で死んだことを知るだろう。
里中浩二は遺体の引き取りを遺族に拒絶される身の上であり、まだ生存しているかさえおぼつかない。
連続爆弾事件の中で死んだのは一応まりかだけだ。
しかし、指や手を失い、目や耳を損傷し、目立つところに大きな傷跡を受け、勿論心に大きな傷を刻んだ筈の被害者は沢山いる。死者の少なさは犯行を免責しない。
犯罪ではないが、山崎佑の自殺未遂が戻れないが死に切れない、誰も守れない結果に終わるのは既に書いた通り。
犯罪も自殺も、追い込まれて破滅を夢見たときのような美しさには終わらない。それを選ばないでくれという制作陣の真っ当で真摯な祈りが心に響く。
ラインを止めて、運賃値上げの交渉を鮮やかな手回しで決める側を選んでくれと。
その祈りをとても美しく思うのです。
筧まりかが残した最後の映像は、山崎佑のマンションに現れたときのものである。マンションの防犯カメラのログ保存期間中、住民以外に訪れた女性のただひとり。
写真が一枚だけ示されるということは帰りは男装したのではないでしょうか。
佑の部屋をつい最近まで人のいた「爆弾魔の部屋には見えない容疑者の部屋」に作り、彼の部屋着を着て自分の着た服をごみに捨てて帰っていった。それは最後の勤務日であったかもしれないし、最初の爆破事件を起こす寸前だったかもしれない。
もしそうだとすれば、彼女の選んだ死装束は彼の部屋着だったということになる。
見舞いにもいけない、まだ閉鎖されてない戸籍に名前を並べることも叶わない彼女の最期に寄り添う形見が肌に触れる服だという幻想は、無惨な最期に許されるただひとつのはなむけでないかと思います。
====
追記:
一年ぶりのご無沙汰でございました。
ちょっと家のことでバタバタしていたのが片付いた途端に少し燃え尽きてしまって、こんなに時間を空けてしまうことになりました。
ぼちぼちとまた書いていければと思います。よろしくお願いします。
筧まりかの話をします。
という前提で「誰の話ですか」と思う人は一旦「ラストマイル」を見てきてからにしてください。
物語の重要人物ですし、山崎佑と筧まりかの関係は最初は何の予備知識も持たずに見てほしい。
申し訳ないですが、見た後で覚えていたらまた見に来てください。
さて。
「ラストマイル」は約2時間(上映時間129分)の中に人数もたくさん、連続爆弾事件に関わる現場もたくさん、詰め込んでいるので登場人物一人当たりの持ち時間がそんなに多くありません。
だとしても、その短い登場時間の中に、他の人物の関係の中に、どういう人だったかの設定はにじむ。
筧まりかはどんな人だったのか。
山崎佑は何故まりかとの結婚を前にベルトコンベアの上に飛び降り、まりかは何故爆弾事件を起こさなければならなかったのか。
「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」
その言葉にある「責任」とは何を指すのか。
彼女の行動と遺留品から、「筧まりか」を追いかけましょう。
2:筧まりかと佑の話をしよう。
まず、基本的な情報の整理から。
筧まりかはデイリーファスト社の西武蔵野ロジスティクスセンターで働くチームマネージャー、山崎佑の婚約者であった。
そして結婚を控えて山崎佑がセンター3階から飛び降り、植物状態になったことを受けてデイリーファスト社に対し責任追及を求めるが、佑の父が責任追及を放棄したことにより頓挫。
その後も諸方に手を尽くし、デイリーファスト米国本社への談判へ動く過程で舟渡エレナとも接触している。
「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」という言葉はこのときにエレナが聞いたものである。
しかし結局いずれも「お気の毒ですができることはありません」以上の回答を得られないまま5年が過ぎる。
時期は不明であるが、爆弾事件を起こすに際してはデイリーファスト米国本社へ予告のアクションがあった模様、しかしこれも黙殺される。
爆弾の予告と前後は不明ながら、デイリーファスト社西武蔵野ロジスティクスセンターへ荷造りと出荷を行う「ブルータグ」のスタッフとして勤務、加えて物品出品者として登録。
「デイリーファウスト」の偽CM及び爆弾1ダースの発注、仕入れ、そして実行。
自身は最初の事件の被害者を偽装し、性別不詳4つに破断した焼死体となって死ぬ。
その少し前、山崎佑のマンションの防犯カメラに映る姿が生前最後の姿となる。
享年およびデイリーファスト社以前の経歴は不明。
以上が「ラストマイル」内における「筧まりか」の行動履歴です。
ここから何がわかるか。
5年にわたり、山崎佑を諦めなかったねばり強さ。
そしてデイリーファスト社に接触する際舟渡エレナという糸口を見つけ、偽CMや爆弾の発注先、戸籍を売るホームレスも見つけている情報収集力。
更に偽CMと爆弾の値段併せただけでも200万円超(これに最低でも「里中浩二」の戸籍の買い取り及びアパート入居一式が加わる)を支払えるだけの貯蓄。
連続爆弾事件の手口を見つけ、計画を練り上げるだけの頭脳。
やりきるだけの行動力と胆力。
業種の特定までは難しい、けれどどこかの会社の「ホワイトタグ」級の職にあった人ではないか。
親兄弟がいるのかはわからない、仮に居たとしても存在感は極めて希薄です。
彼女の執着は山崎佑ただ一人にある。
法的に家族になれなかった、おそらく見舞いにいくことさえできない他人の為に、彼女は5年も尽くした。
その筧まりかの人となりを恋人だった山崎佑が理解していないとは思えない。
自分の死後「家族」という絆に縛られてまりかが傷だらけの法廷闘争に陥ることは想像できたでしょう。
佑が結婚前に飛び降りることを選んだのは、まりかを巻き込まないためだったのではないでしょうか。
しかしもう一度まりかの性質に視点を戻せば、そもそも恋人が精神的に追いつめられて「ブラックフライデーが怖い」と呟く様を放っておいたとは思えない。巻き込まれることもむしろ望むところだろう。
彼女はパワフルである。既に退職か最低でも休職を勧めるところまではしていたのではなかろうか。デイリーファスト社に対して取ることのできる法的措置を検討するくらいまでしていても私は驚かない。
佑の退職や休職、そして病気療養の想定はまりかが結婚を躊躇う理由にはならなかっただろう。
筧まりかには、おそらく佑ひとりを養うだけの稼ぎはあったろうから。
ここで一旦山崎佑についても考えましょう。
山崎佑の部屋に残された服は、捜索に入った伊吹の目にも高価とわかるものです。
ここを手掛かりにできそうです。
センター内の実務を取り仕切るチームマネージャーが薄給だとは思わないけれど、収入に比して少し高めの服を買っているのではないか。
それは趣味だからかもしれないし、ストレスの代償に高い買い物を許容しているのかもしれない。
それでも他人の目や思惑を割と気にするタイプだったのではないか。
いわゆる「いい人」でいたいタイプ。
それも高い服に見合うようになりたい向上心と野心を抱えてなお「いい人」と思われたい完璧主義。
チームマネージャーの仕事について、梨本孔は「やることをやってれば責められることはない」と言う。
しかし孔は前職の日本式ブラック企業のすり潰しに懲りて「いい人」を一切やめた男です。
岡田将生なのでわかられにくいけれど「クセのある服」は彼の大事なキャラクターデザインの要素に上げられています。
つまり2年も正気のままセンター内「ホワイトタグ」最古参として梨本孔が勤務できているのは、自分の防衛を第一に、傍目も他人の都合も気にしないからだという結論が出ます。この仕事に適応するにはそうでなければならない。
じゃあ逆に「いい人」であることが捨てられない佑がこのチームマネージャーの仕事をやるとどうだったのか。
チームの人間関係に配慮しようとすれば際限なく調整と追加の仕事が降り、制限時間と効率の数値に追い回されながら管理され、目標未達のミスに無能感を得て、短期間で精神が限界に至るのではなかろうか。
仮定に仮定を重ねた妄想だと言っていい話なのですけれど。
日本式の「いい人」。つまり他人を気にして配慮で身を削る優しい男が山崎佑であった場合、病んで仕事を手放し職場に「迷惑」をかけ、恋人であるまりかの世話になる道はもしかして救いには見えなかったかもしれない。
アイデンティティの喪失になってしまう。
これに更に佑の父を重ねて考える。
最初はまりかを伴って法律事務所を訪れたのだから、関係は良好だったように思える。
しかし事情は知らないが法的追及を諦めた山崎父が、諦めないまりかを罵る「あんたの所為だ」は、傷ついた父親から思う優しすぎる息子に対して慰めより共に戦うのに向いた「女らしさ」に欠く嫁への不満ではなかったか。
「あんたの所為だ」が刺さってしまったことが「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」という問いに繋がるなら、まりかにも薄く自分の所為だと責めることがあるからではないでしょうか。
まりかが力強く手を差し伸べたからこそ佑を追い詰めた、と思われる余地がここにできてしまう。
山崎佑は楽になりたかったし、恋人の重荷になりたくなかった。
飛び降りたらラインが止まる。
それだけで頭がいっぱいになった佑に「止めてどうする」の考えはなかったろう。
計画性があったとは思えない、「止めない」ことに消耗した果てにやってはいけないことの全部をひっくり返して消えたい衝動によって3階から飛ばされたのだ。
その結果、佑は死にきれず楽になれなかったし、法的に戦える地位を与えられなかったまりかは佑の為の戦いを諦めきれず、無理筋のゲリラ戦に突入して命を落とした。
佑本人が言い残したように佑は「ばかなことをした」のである。
話を筧まりかに戻しましょう。
法的な配偶者でなかったから、まりかが佑の代理人になることはできない。だからこそ佑の父に、エレナに、必死で協力を訴える他なかった訳です。
法的根拠のない立場での、法的な形に整えられていない後ろ盾もない道義的な要求というのは交渉力が非常に弱い。
佑の父はデイリーファスト社への法的措置を諦めてまりかを捨て、エレナを通じての本社へのアプローチも「お気の毒ですができることがありません」の回答しか引き出せない。
訴える資格のないあいまいな責任は、デイリーファスト社の逃げ道をふさげない。
「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」
まりかの言葉には、佑を奪われた怒りと佑との関係を否定され続けて一層深くなった悲しみがにじみます。
この言葉を「私の所為だっていうんですか」と言い換えてしまうときっと間違う。
佑を害したのは佑本人である。直接の責任は佑にある。
しかし佑を追い込んだのは、と二次的な責任に踏み込んだとき、浮かび上がるのは個人の小さな荷物が集積された「世界」というべき流通量そのものです。
カートに入れてぽち、そのクリック音が現実の荷物の数となる。
そのひとつひとつ、患者の命が掛かる医薬品や子供が初めて買うママへのプレゼントにも含まれる「責任」は、発注の数に問うか金額に比例すべきでしょうか。
ひとつひとつに「責任をとって」もらうことが非現実的とすぐわかる膨大な荷物の数、その膨大さに「山崎佑」という犠牲の輪郭が消えていく、無視されるのが確定するその絶望がこの言葉ではなかったか。
そしてその膨大な荷物の数を「止めない」「全てはお客様のために」と責任をパスボールしながら見ないふりをして、上層部は上層部で現場とは別のベンチマークとノルマに追われ続ける。佑と変わらない限界な人たちで動いているデイリーファスト社の状況の理解もまりかに一層やり場のない思いをさせただろう。
彼女のデイリーファスト社に求める責任とは、損害賠償や具体的な待遇改善措置というより、ただ社員が手すりを乗り越えて飛び降りる程精神をすり減らした事実を認めて忘れないという道義的な責任であったように思うのです。
筧まりかがどの時点で「ブラックフライデーを狙った無差別爆弾テロ」という手段で膨大な荷物を発注する「世界に責任を取らせる」ことにしたのかはわからない。
ブラックフライデーの膨大な荷物をさばく為には大量の人手がいる。
デイリーファスト社は異物の持ち込みや盗難の持ち出しを防ぐ方法を厳重にしている代わり、人そのものの審査は甘い。孔は前職の詳細を隠したまま就職できているし、エレナは本社の人間だと周囲に知られないまま着任している。
そこに他意はない、大量の人手を集め、労力だけを抽出して管理する為のただのシステムだ。
しかし筧まりかが「ブルータグ」のスタッフとして、物品出品者という納入業者のような立場として、全く見咎められることなく登録されたことをどう感じただろう。
ことあるごとに本名で対処を訴えてきた筈の名前が何も警戒されていない。爆弾予告を出した後でも普通に勤務が続けられている。
ちょっと変わった、同姓同名の少ない名前なのにも関わらず、探されていない。
「筧まりか」が無視されるのは、山崎佑が忘れられていることと同義であっただろう。
そしてその仕打ちは彼女に「予告はしたがそこで止める」という選択を失わせたように思う。
筧まりかは法的な保証を持てなくとも山崎佑の家族として、山崎佑が過去のものにならないよう主張し続ける責任を自ら負っている。
デイリーファスト社の答えが無視ならば、実行する以外の道はなかった。実行しなければ今度こそ「山崎佑」のケースは終了の判を押されてファイルごと削除されてしまうから。
そして他人の遺体に紛れ、もう存在しないのに探し続けられる幻の犯人となって事件を終了させないことが筧まりかの選んだ「責任」の形だった。
山崎佑の為に命を張ることでしか佑との絆を世界に証明できなかった、悲しい人の物語。
3:普通の生活がある筈だった。
筧まりかや爆弾の製造を請け負った春日は、本来は皆普通の、まじめでよく働く人たちでした。
まりかはブルータグスタッフとしても成績優秀だったし、春日は爆弾の不良品もきちんと伝え、120万の報酬で遊ぶことなく「借金の返済と母親の葬式」という身辺整理をする。
特別な顕示欲や残虐性のある、そんな普通でない犯罪者は自分と関係ないと切り捨てられない人たち。
何事もなければ犯罪に手を染めることもなかった筈の、普通の人だ。里中浩二の人となりはわからないが、ホームレス生活も相当窮乏してなければ戸籍を売るなんてことはしなくてよかったろう。
犯罪者である彼らは明日の自分かもしれない、という設計と同時に、本作品はその選択を肯定しない。
筧まりかが自分の始末にかかるときには恐怖と緊張で顔はひきつれ、遺体に残る生体反応は絶息するまでの苦痛を物語る。それでも自分の生存を偽装し続けることはできなかった。
報酬で身辺整理が済んだから、死刑で自分も片づけば丁度いい、とばかりの口を利く春日はやがて「逃げ切って欲しいなあ」と共感した「ハッピーちゃん」が自分の爆弾で死んだことを知るだろう。
里中浩二は遺体の引き取りを遺族に拒絶される身の上であり、まだ生存しているかさえおぼつかない。
連続爆弾事件の中で死んだのは一応まりかだけだ。
しかし、指や手を失い、目や耳を損傷し、目立つところに大きな傷跡を受け、勿論心に大きな傷を刻んだ筈の被害者は沢山いる。死者の少なさは犯行を免責しない。
犯罪ではないが、山崎佑の自殺未遂が戻れないが死に切れない、誰も守れない結果に終わるのは既に書いた通り。
犯罪も自殺も、追い込まれて破滅を夢見たときのような美しさには終わらない。それを選ばないでくれという制作陣の真っ当で真摯な祈りが心に響く。
ラインを止めて、運賃値上げの交渉を鮮やかな手回しで決める側を選んでくれと。
その祈りをとても美しく思うのです。
筧まりかが残した最後の映像は、山崎佑のマンションに現れたときのものである。マンションの防犯カメラのログ保存期間中、住民以外に訪れた女性のただひとり。
写真が一枚だけ示されるということは帰りは男装したのではないでしょうか。
佑の部屋をつい最近まで人のいた「爆弾魔の部屋には見えない容疑者の部屋」に作り、彼の部屋着を着て自分の着た服をごみに捨てて帰っていった。それは最後の勤務日であったかもしれないし、最初の爆破事件を起こす寸前だったかもしれない。
もしそうだとすれば、彼女の選んだ死装束は彼の部屋着だったということになる。
見舞いにもいけない、まだ閉鎖されてない戸籍に名前を並べることも叶わない彼女の最期に寄り添う形見が肌に触れる服だという幻想は、無惨な最期に許されるただひとつのはなむけでないかと思います。
====
追記:
一年ぶりのご無沙汰でございました。
ちょっと家のことでバタバタしていたのが片付いた途端に少し燃え尽きてしまって、こんなに時間を空けてしまうことになりました。
ぼちぼちとまた書いていければと思います。よろしくお願いします。
もう「お蔵入り」は十分だ。 ― 2023/07/15
不祥事だ、というと一斉にDVDもBlu-rayも売るな、配信もだめだ、再放送など以ての外という対応になって、しかもそれは「社会的責任」の名の下に行われる。
その結果当事者以外の出演者及び制作スタッフは「お蔵入り」の責任に連座することになり、作品のファンはどれだけ熱を込めて紹介しようと「今は見られないんです」で結ばざるを得ない。
そして理由が公開されるかどうかもまちまちなまま、まちまちな期間でまちまちな範囲の制裁解除がなされていく。地上波の再放送が一番遅いのは均一であろうか。
不祥事と言っても人前で醜態晒したり不倫など、イメージダウンが激しいものから「犯罪者」となる刑法犯まで様々であるが、この話では刑法犯に絞る。
薬物の使用、性犯罪、暴力、そして一家心中の生き残りに責任を問う自殺幇助が付け加わった。
悪いことをした人はそれなりの報いを受けるべき、という感覚は素朴な感情ではある。
しかしその報いは、本来を司法の手によって為されるものというのが法治国家の原則でしょう。
勿論司法によって与えられた刑罰は、受けたことでその罪を無かったことにはできない。
一般に多くは事件を原因に職を失う。それは社会的地位を奪い、罪の発覚以降将来へわたって収入を奪う社会的制裁となる。
しかし再犯のおそれ及び「普通」と違う経歴を持つ者への不信に基づく排斥は、本来差別である。
実際に再犯・累犯する者の多さや、犯罪が全てを失わせるイメージに犯罪抑止効果を期待することで見逃されているだけに過ぎない。
実際刑の執行後の元犯罪者の人生は受け入れるコミュニティの有無と性質に掛かっているし、そこには過去犯人がどのように生きてきたかも表される。
しかし芸能人は将来にわたる仕事の前にまず過去の仕事を失う。
巻き添えにする者を増やすことは仕事上の人間関係も壊すだろう。
積極的に社会から追い出し、過去の仕事を無かったものにし、自分たちは犯罪を肯定しないとアピールする。
それが犯罪者になった者に仕事を与えたものの「社会的責任」というのである、が。
それは何に対してどういう根拠で誰が負う責任なのか。
疑問はある。
そして不満はあれども顧客が「仕方ない」と落ち着きがちなのは、自分が作品を見たいと、他人にも見て欲しいと思うのが「我欲」と思うと後ろめたいからである。
後ろめたく感じるようにされてしまった。
犯罪者に与える制裁を嫌だという事は犯罪者を甘やかすことであり、被害者がいる場合は被害者の軽視であり、「社会的責任」に異を唱えることは「反社会的」に思えるからである。
皆「いい人」でありたいのである。
私だってそうだ。
しかし、犯罪に対して社会が負わせる責任は本来司法の手で負わされた量刑であり、その他の私的制裁には何ら法的根拠がないのではないか。
犯人は犯罪を行うまでは何の制限も受けない市民であり、刑を受けた後は本来また市民に戻るのが法である。
根拠と限度のない私的制裁に賛同することは、果たして妥当なのか。
それは相手が犯罪者であることを理由として、懲罰を超えた新たな加害行為に賛同することになってはいないか。
考えるべきは最終的な製品の買い手であり業界の外にある私たちではないのか、考える時期にきているのではないかと思うのです。
犯罪を起こす前の、何問題を起こすでもなかった時期の作品に連帯責任を問う根拠はあるか。
犯罪者となる未来を予知できない以上、制作段階では全力を尽くすのは当たり前ですし、それは何ら罪を問われる必要はありません。
しばしば根拠として用いられる「被害者の感情」は本当に被害者の救いになるのか。
被害者の救済は、被害を受けたことを原因とする生活上の不利益を一切受けない形が理想と考えます。
被害者は加害者がどう刑を受けようが、制裁を科されようが、加害者の人生に責任を負わされるべきではありません。
被害者の感情が満足する時なんか来なくて当たり前です。だからこそ被害者に制裁を終わらせない為の責任を押しつけたらいけない。
立場が弱いのは、被害者です。
加害者の映像が心理的につらい、というのはあるでしょうし、特に症状がひどい、生活に支障があるというケースもあるでしょう。
それは個別に考慮すべき事案であって、一般化する必要があるでしょうか。
事件の現場となった建造物は建て替えられるケースもある。
しかし、限られる。
学校や福祉施設など利用者が選択できる代替施設があるとは限らず、利用者の自由にできない滞在時間が長く、かつ利用者がそこにいる自分と被害者を重ねて事件を想起し、危険を感じる割合が無視できない人数に至るケースである。
それ以外の場合、たとえば駅や高速道は現場であってもそのまま残る。重大事故を起こした車と同型式同カラーの車は回収されない。
社会から無くすことの損失が、その効果に比して過大とされるからでしょう。
映像作品の影響は無視できるほど小さいですか。
見たい人が選択して再生する配信形式だとしても、作品の存在を許さない方が比重が大きい程に小さいですか。
私がある程度納得できる「お蔵入り」の理由としては、公判ことに裁判員裁判において加害者のパブリックイメージが被害者の不利益に繋がる危険性が上げられます。
しかしそれも控訴審以降、専門家の領域で行われている裁判の過程がパブリックイメージ程度の影響を排除できないとしたら、むしろその方が問題なのではないでしょうか。
また、回復不能な被害の償いも金銭による賠償とする現行法制度の中で、滞りなく支払いが行われるべきことを考えれば、その為の原資がある方が支払いは順調に決まってます。
そして作品を事実上なかったことにする制裁は、業界に属する人間と制作環境の健全化と再発防止策に役立つのか。
一向になくならないではないですか。
制裁だけが業界の「努力」なのかと疑います。
そもそも制裁解除に至る経過に公正性はあるのか。
実際は誰かが「もうよかろう」と言えばよくて、その「もうよかろう」の裁定が業界内の権力になっているのではないか。
その裁量権はハラスメントに繋がるものではないのか。
業界の外から見ればたかだか所属事務所の移籍程度のことでさえ、ブランドとして育った名前は置いていけの、クライアントが仕事を与えないよう手を回すの、同じグループとしての活動が維持できないよう人数を分けろの、嫌がらせとしか思えない行為を隠しもしない芸能業界に対し、その公正性を信じるのは残念ながら難しいことです。
先だって、ピエール瀧の映像作品が解禁されるに当たって、「執行猶予期間が無事満了し、本人も活動を再開している」旨の理由の告示がありましたが、その程度のことさえ稀です。
加害者の正しくなさを追及するなら、自らもまず正しくあっていただきたい。
以上、長くなりましたが「お蔵入り」は根拠が甘く責任の所在もあやふやなまま恣意的に行われている私的制裁であり、社会的にプラスの影響は見られないと思ってよいのだからそろそろ改めるべきだ、という一介の零細顧客の主張でした。
「お蔵入り」の損失を許容範囲に抑えた規模でしか作品を作らないとする。
人数を使えば使うほどリスクが高いから少人数。引退までの時間が長い若年者こそリスクが高くなるから出演料は一層間引かれなければならない。制作費の上限は損失見込額だから、技術の質なんか知ったことじゃない。
そんな映像作品の制作事情が当たり前になったとして、その制限下で目を見張る作品が果たしてできますか。
精魂込めた作品なしで、芸能業界は発展していきますか。
それで海外の作品と戦っていけるのですか。
閉じて縮小していく一方の市場ではどんどん資金が入らなくなり、ろくに育成もできないままの若者を、その瞬間だけ消費していく業態に落ちかねませんが、それでもこの制裁の慣行を続ける価値がありますか。
やめましょうよ、そろそろ。
作品のエンドユーザーとしては、関わる人が脅されることなく普通の職場として普通に働ける産業であって欲しいです。
その結果当事者以外の出演者及び制作スタッフは「お蔵入り」の責任に連座することになり、作品のファンはどれだけ熱を込めて紹介しようと「今は見られないんです」で結ばざるを得ない。
そして理由が公開されるかどうかもまちまちなまま、まちまちな期間でまちまちな範囲の制裁解除がなされていく。地上波の再放送が一番遅いのは均一であろうか。
不祥事と言っても人前で醜態晒したり不倫など、イメージダウンが激しいものから「犯罪者」となる刑法犯まで様々であるが、この話では刑法犯に絞る。
薬物の使用、性犯罪、暴力、そして一家心中の生き残りに責任を問う自殺幇助が付け加わった。
悪いことをした人はそれなりの報いを受けるべき、という感覚は素朴な感情ではある。
しかしその報いは、本来を司法の手によって為されるものというのが法治国家の原則でしょう。
勿論司法によって与えられた刑罰は、受けたことでその罪を無かったことにはできない。
一般に多くは事件を原因に職を失う。それは社会的地位を奪い、罪の発覚以降将来へわたって収入を奪う社会的制裁となる。
しかし再犯のおそれ及び「普通」と違う経歴を持つ者への不信に基づく排斥は、本来差別である。
実際に再犯・累犯する者の多さや、犯罪が全てを失わせるイメージに犯罪抑止効果を期待することで見逃されているだけに過ぎない。
実際刑の執行後の元犯罪者の人生は受け入れるコミュニティの有無と性質に掛かっているし、そこには過去犯人がどのように生きてきたかも表される。
しかし芸能人は将来にわたる仕事の前にまず過去の仕事を失う。
巻き添えにする者を増やすことは仕事上の人間関係も壊すだろう。
積極的に社会から追い出し、過去の仕事を無かったものにし、自分たちは犯罪を肯定しないとアピールする。
それが犯罪者になった者に仕事を与えたものの「社会的責任」というのである、が。
それは何に対してどういう根拠で誰が負う責任なのか。
疑問はある。
そして不満はあれども顧客が「仕方ない」と落ち着きがちなのは、自分が作品を見たいと、他人にも見て欲しいと思うのが「我欲」と思うと後ろめたいからである。
後ろめたく感じるようにされてしまった。
犯罪者に与える制裁を嫌だという事は犯罪者を甘やかすことであり、被害者がいる場合は被害者の軽視であり、「社会的責任」に異を唱えることは「反社会的」に思えるからである。
皆「いい人」でありたいのである。
私だってそうだ。
しかし、犯罪に対して社会が負わせる責任は本来司法の手で負わされた量刑であり、その他の私的制裁には何ら法的根拠がないのではないか。
犯人は犯罪を行うまでは何の制限も受けない市民であり、刑を受けた後は本来また市民に戻るのが法である。
根拠と限度のない私的制裁に賛同することは、果たして妥当なのか。
それは相手が犯罪者であることを理由として、懲罰を超えた新たな加害行為に賛同することになってはいないか。
考えるべきは最終的な製品の買い手であり業界の外にある私たちではないのか、考える時期にきているのではないかと思うのです。
犯罪を起こす前の、何問題を起こすでもなかった時期の作品に連帯責任を問う根拠はあるか。
犯罪者となる未来を予知できない以上、制作段階では全力を尽くすのは当たり前ですし、それは何ら罪を問われる必要はありません。
しばしば根拠として用いられる「被害者の感情」は本当に被害者の救いになるのか。
被害者の救済は、被害を受けたことを原因とする生活上の不利益を一切受けない形が理想と考えます。
被害者は加害者がどう刑を受けようが、制裁を科されようが、加害者の人生に責任を負わされるべきではありません。
被害者の感情が満足する時なんか来なくて当たり前です。だからこそ被害者に制裁を終わらせない為の責任を押しつけたらいけない。
立場が弱いのは、被害者です。
加害者の映像が心理的につらい、というのはあるでしょうし、特に症状がひどい、生活に支障があるというケースもあるでしょう。
それは個別に考慮すべき事案であって、一般化する必要があるでしょうか。
事件の現場となった建造物は建て替えられるケースもある。
しかし、限られる。
学校や福祉施設など利用者が選択できる代替施設があるとは限らず、利用者の自由にできない滞在時間が長く、かつ利用者がそこにいる自分と被害者を重ねて事件を想起し、危険を感じる割合が無視できない人数に至るケースである。
それ以外の場合、たとえば駅や高速道は現場であってもそのまま残る。重大事故を起こした車と同型式同カラーの車は回収されない。
社会から無くすことの損失が、その効果に比して過大とされるからでしょう。
映像作品の影響は無視できるほど小さいですか。
見たい人が選択して再生する配信形式だとしても、作品の存在を許さない方が比重が大きい程に小さいですか。
私がある程度納得できる「お蔵入り」の理由としては、公判ことに裁判員裁判において加害者のパブリックイメージが被害者の不利益に繋がる危険性が上げられます。
しかしそれも控訴審以降、専門家の領域で行われている裁判の過程がパブリックイメージ程度の影響を排除できないとしたら、むしろその方が問題なのではないでしょうか。
また、回復不能な被害の償いも金銭による賠償とする現行法制度の中で、滞りなく支払いが行われるべきことを考えれば、その為の原資がある方が支払いは順調に決まってます。
そして作品を事実上なかったことにする制裁は、業界に属する人間と制作環境の健全化と再発防止策に役立つのか。
一向になくならないではないですか。
制裁だけが業界の「努力」なのかと疑います。
そもそも制裁解除に至る経過に公正性はあるのか。
実際は誰かが「もうよかろう」と言えばよくて、その「もうよかろう」の裁定が業界内の権力になっているのではないか。
その裁量権はハラスメントに繋がるものではないのか。
業界の外から見ればたかだか所属事務所の移籍程度のことでさえ、ブランドとして育った名前は置いていけの、クライアントが仕事を与えないよう手を回すの、同じグループとしての活動が維持できないよう人数を分けろの、嫌がらせとしか思えない行為を隠しもしない芸能業界に対し、その公正性を信じるのは残念ながら難しいことです。
先だって、ピエール瀧の映像作品が解禁されるに当たって、「執行猶予期間が無事満了し、本人も活動を再開している」旨の理由の告示がありましたが、その程度のことさえ稀です。
加害者の正しくなさを追及するなら、自らもまず正しくあっていただきたい。
以上、長くなりましたが「お蔵入り」は根拠が甘く責任の所在もあやふやなまま恣意的に行われている私的制裁であり、社会的にプラスの影響は見られないと思ってよいのだからそろそろ改めるべきだ、という一介の零細顧客の主張でした。
「お蔵入り」の損失を許容範囲に抑えた規模でしか作品を作らないとする。
人数を使えば使うほどリスクが高いから少人数。引退までの時間が長い若年者こそリスクが高くなるから出演料は一層間引かれなければならない。制作費の上限は損失見込額だから、技術の質なんか知ったことじゃない。
そんな映像作品の制作事情が当たり前になったとして、その制限下で目を見張る作品が果たしてできますか。
精魂込めた作品なしで、芸能業界は発展していきますか。
それで海外の作品と戦っていけるのですか。
閉じて縮小していく一方の市場ではどんどん資金が入らなくなり、ろくに育成もできないままの若者を、その瞬間だけ消費していく業態に落ちかねませんが、それでもこの制裁の慣行を続ける価値がありますか。
やめましょうよ、そろそろ。
作品のエンドユーザーとしては、関わる人が脅されることなく普通の職場として普通に働ける産業であって欲しいです。
「どうする家康」:CGの戦で何が悪い ― 2023/06/10
合戦は戦国大河の華である。 勝敗で運命が変わるドラスティックなイベントであり、幾多の命が果てる緊張感がある。 普段と違う鎧甲という華やかな装備をまとい、馬にも乗る。 究極の非日常である。
さて「どうする家康」にも当然戦はある。むしろ多い。 そして感想で頻出するのが「CG」である。 曰く、「作り物である」「強調が安っぽい」「ゲームだ」。 どうしても否定の方が目に立つようなのだけれど、はたして本当にそうか。 CGの戦は果たして悪か。
CGの是非を問うならまず「戦のシーンに求められるものは何か」次いで「その表現にCGを用いるのに不足があるか」を語る必要があるでしょう。 先程述べた通り、合戦は華です。 つまり求められるのは普段にない服と装備を着用し、馬に乗り、命と運命を賭けて戦う緊張感。「すっごいゴージャスなものが見たい」 これが要求になります。 ではCGはこれに足りないのか。 CGは、確かに演算で描いた絵だ。生きた人や馬はそこにはいない。 とは言え、見分けはつくだろうか。 去年の大河、撮影の新兵器たるLEDスクリーン、きっとこここそCGだと思ったシーンを「実はロケ」と明かされることが何度もあった。逆に「えっそこがCG?」という場所もあった。 お前の目が節穴だからだよ、というご指摘は甘んじて受ける。 しかし私には実際見分けがつかなかった。 見分けがつかない以上、CGであるかどうかの詮索は意味がないと思う。 4月16日に公開されたフルCGの戦場シーンのサンプル動画は美しかった。ここまで技術は進歩したんだなあという感想しかない。 勿論私は目利きとは言えないし、テレビも未だに4K非対応である。 しかし逆に4K以上だとしっとり鮮やかな階調で大変美しいのだ、という迫力に「騙されている」訳でもないと言える。 要求に応える十分な品質は既にあります。 大体スターウォーズや特撮映画なら、そのあり得ない光景を作り出す技術は評価の対象でしょう。 号令ひとつで自然に歩いてくれる訳ではないCGを高品質に作る手間は決してインスタントなものではない。当然お値段も張る。 何故大河だけ、しかも戦だけ「CGなら手抜き」なのか。
何もロケと実写に価値がないとは言わない。 実際の広い空間と空気の流れ、生きた人と馬、実物がそこにあるという情報量は大きいし、演じる役者さんにも影響するだろう。 気象条件による偶然の美が撮れる可能性もある。 それは紛れもなく屋外ならではの良さだ。 一方でロケ、ことに戦場のロケの難しさというものも存在する。 まず合戦が撮影できる広さと構造物の少ない土地は、限られている。 そしてその土地に撮影の為の人員資機材を持ち込み、撮影し、撤収するまでの運営管理の複雑さ。 天候に大きく左右されることによる、人員の拘束時間の長さ。 その困難ゆえに、ロケは予算がかかる。 ここぞという時にこそ使う。 大河にとって「合戦が華」なのは物語の大事な転機に合戦があるだけでなく、予算に値する効果を期待するところもあるのではないでしょうか。
ここでひとつ話を変えますが、「どうする家康」にとって戦は特別なイベントでしょうか。 初回の「大高城兵糧入れ」から始まり、桶狭間を経て岡崎入り、今川から織田に乗り換えてもずっと、大国の国境にある小国としての争いが続きその疲弊が「三河一揆」に繋がる。今川がなくなって武田を警戒しながら織田の要請に応じて上洛からの北陸攻め、そこからの「三方ヶ原」から「長篠」である。 すなわちこれまで21回、物語はずっと戦の中である。 鎧兜を着けていなくても、画面の中には常に戦場の後方である意識がある。 常に戦場だからこそ意識の底にいつも流れる「厭離穢土欣求浄土」の旗印とも言える。 最早特別なイベントではない、戦は日常です。 この頻度だと、戦の映像にあるもうひとつの側面が浮かんでくる。 戦場は、画面の変化が乏しい。 戦の規模や重要性に違いはあれど、自らの浮沈を賭け集団で行う殺し合いである。 土地の条件は異なり、顔ぶれも異なり、それでも起きることは大体同じこととなる。 いつも通りに遠距離から近距離の順で武器を振り回し、その中に騎馬武者が点在し、殺したり殺されたりするのである。 見た目が変わらない。 見た目にも明らかな武器や戦い方の変化があるときは、それまでの戦がパターンだからこそ違いが際立つ。 21回までの戦の様子は、ほぼ同じだ。 だからこそ鵜殿長照父子、お玉、田鶴、阿月、本多忠真と夏目広次、鳥居強右衛門とエピソードで戦ごとの変化をつけている。 エピソードの他にも、戦の場所は領土の境から遠征での合力、領内での一揆鎮圧。相手は今川武田といった強豪から農民という立場も心情も様々で、地形から見ても海辺、城郭戦、河川敷、平野と様々です。 この頻度もパターンも満遍ない戦具合をロケだけでまかなえるか。 あまり現実的ではなさそうです。 だからこそ、ロケとCG+セットの組み合わせになるのでしょう。 ずっとずっと戦、誰とでもどこまででも戦という連続性は「厭離穢土欣求浄土」と一続きなので、必要性あってのツールと思います。
そもそもロケには再現に徹しきれない限界がある。 安全確保の必要性は重い。 戦は殺し合いだが撮影で死亡事故を出す訳にはいきません。 堀や崖、人を殺傷して進軍を止める設備や罠をそのまま作る訳にはいかないし、一度に突進する人数等、安全確保の為に加えた「手心」はしかし画面に映る。 馬は人以上に事故のリスクが高い。 過去「武田信玄」で見事な騎馬隊が編成された実績はありますが、それが通例とならなかったということは、画面の外に二度とやらない(やれない)だけの困難があったという推察ができます。 戦に本物を求めると、安全確保もままならず「いやーやっぱりせめて重傷者の数人は出して馬も2〜3頭は死んでてもらわないとねえ」ということになりかねない訳ですが、やるべきですか。 違うでしょう。 CGなら人が死にかねない設備を作り、戦場らしい人数を突撃させ、史実的には正しくても人馬をともに危険にさらす密度で軍勢を動かすことができるのですが。 実際には撮影隊が展開できない地形での戦場を作れる可能性も出てくる訳ですが。 その場合どっちが「忠実な再現」になるんでしょうね?
勿論技術的にまだ発展途上の粗さを見ることはあります。 ことにスタジオ内に作られた山道の空気感はちょっと屋外との違和感がある。 CGの制作現場と実写の撮影現場が別々であることの連携の難しさ、それぞれにコントロールしていく必要のある各種考証、他にも色々新しい技術を導入したからこそ変わらねばならない制作現場の流れや、やってみて初めて出てくる問題点もあるでしょう。 それでも、新しい技術で表現できることが増えていく可能性を私は信じたい。 人や馬のひとつひとつの動きに対する注目が低くなる遠景の「群」の中まで本物である必要がありますか。 本当はもっとこうなんだよ、という再現を、自由度の高いカメラアングルでの映像を、見てみたくありませんか。 CGを使えばこの先もっと進歩があるとするならば、それは試行錯誤しながら進む他ないのではないでしょうか。
だとすれば、CGの戦の何が悪い。 私はそう思うのです。
さて「どうする家康」にも当然戦はある。むしろ多い。 そして感想で頻出するのが「CG」である。 曰く、「作り物である」「強調が安っぽい」「ゲームだ」。 どうしても否定の方が目に立つようなのだけれど、はたして本当にそうか。 CGの戦は果たして悪か。
CGの是非を問うならまず「戦のシーンに求められるものは何か」次いで「その表現にCGを用いるのに不足があるか」を語る必要があるでしょう。 先程述べた通り、合戦は華です。 つまり求められるのは普段にない服と装備を着用し、馬に乗り、命と運命を賭けて戦う緊張感。「すっごいゴージャスなものが見たい」 これが要求になります。 ではCGはこれに足りないのか。 CGは、確かに演算で描いた絵だ。生きた人や馬はそこにはいない。 とは言え、見分けはつくだろうか。 去年の大河、撮影の新兵器たるLEDスクリーン、きっとこここそCGだと思ったシーンを「実はロケ」と明かされることが何度もあった。逆に「えっそこがCG?」という場所もあった。 お前の目が節穴だからだよ、というご指摘は甘んじて受ける。 しかし私には実際見分けがつかなかった。 見分けがつかない以上、CGであるかどうかの詮索は意味がないと思う。 4月16日に公開されたフルCGの戦場シーンのサンプル動画は美しかった。ここまで技術は進歩したんだなあという感想しかない。 勿論私は目利きとは言えないし、テレビも未だに4K非対応である。 しかし逆に4K以上だとしっとり鮮やかな階調で大変美しいのだ、という迫力に「騙されている」訳でもないと言える。 要求に応える十分な品質は既にあります。 大体スターウォーズや特撮映画なら、そのあり得ない光景を作り出す技術は評価の対象でしょう。 号令ひとつで自然に歩いてくれる訳ではないCGを高品質に作る手間は決してインスタントなものではない。当然お値段も張る。 何故大河だけ、しかも戦だけ「CGなら手抜き」なのか。
何もロケと実写に価値がないとは言わない。 実際の広い空間と空気の流れ、生きた人と馬、実物がそこにあるという情報量は大きいし、演じる役者さんにも影響するだろう。 気象条件による偶然の美が撮れる可能性もある。 それは紛れもなく屋外ならではの良さだ。 一方でロケ、ことに戦場のロケの難しさというものも存在する。 まず合戦が撮影できる広さと構造物の少ない土地は、限られている。 そしてその土地に撮影の為の人員資機材を持ち込み、撮影し、撤収するまでの運営管理の複雑さ。 天候に大きく左右されることによる、人員の拘束時間の長さ。 その困難ゆえに、ロケは予算がかかる。 ここぞという時にこそ使う。 大河にとって「合戦が華」なのは物語の大事な転機に合戦があるだけでなく、予算に値する効果を期待するところもあるのではないでしょうか。
ここでひとつ話を変えますが、「どうする家康」にとって戦は特別なイベントでしょうか。 初回の「大高城兵糧入れ」から始まり、桶狭間を経て岡崎入り、今川から織田に乗り換えてもずっと、大国の国境にある小国としての争いが続きその疲弊が「三河一揆」に繋がる。今川がなくなって武田を警戒しながら織田の要請に応じて上洛からの北陸攻め、そこからの「三方ヶ原」から「長篠」である。 すなわちこれまで21回、物語はずっと戦の中である。 鎧兜を着けていなくても、画面の中には常に戦場の後方である意識がある。 常に戦場だからこそ意識の底にいつも流れる「厭離穢土欣求浄土」の旗印とも言える。 最早特別なイベントではない、戦は日常です。 この頻度だと、戦の映像にあるもうひとつの側面が浮かんでくる。 戦場は、画面の変化が乏しい。 戦の規模や重要性に違いはあれど、自らの浮沈を賭け集団で行う殺し合いである。 土地の条件は異なり、顔ぶれも異なり、それでも起きることは大体同じこととなる。 いつも通りに遠距離から近距離の順で武器を振り回し、その中に騎馬武者が点在し、殺したり殺されたりするのである。 見た目が変わらない。 見た目にも明らかな武器や戦い方の変化があるときは、それまでの戦がパターンだからこそ違いが際立つ。 21回までの戦の様子は、ほぼ同じだ。 だからこそ鵜殿長照父子、お玉、田鶴、阿月、本多忠真と夏目広次、鳥居強右衛門とエピソードで戦ごとの変化をつけている。 エピソードの他にも、戦の場所は領土の境から遠征での合力、領内での一揆鎮圧。相手は今川武田といった強豪から農民という立場も心情も様々で、地形から見ても海辺、城郭戦、河川敷、平野と様々です。 この頻度もパターンも満遍ない戦具合をロケだけでまかなえるか。 あまり現実的ではなさそうです。 だからこそ、ロケとCG+セットの組み合わせになるのでしょう。 ずっとずっと戦、誰とでもどこまででも戦という連続性は「厭離穢土欣求浄土」と一続きなので、必要性あってのツールと思います。
そもそもロケには再現に徹しきれない限界がある。 安全確保の必要性は重い。 戦は殺し合いだが撮影で死亡事故を出す訳にはいきません。 堀や崖、人を殺傷して進軍を止める設備や罠をそのまま作る訳にはいかないし、一度に突進する人数等、安全確保の為に加えた「手心」はしかし画面に映る。 馬は人以上に事故のリスクが高い。 過去「武田信玄」で見事な騎馬隊が編成された実績はありますが、それが通例とならなかったということは、画面の外に二度とやらない(やれない)だけの困難があったという推察ができます。 戦に本物を求めると、安全確保もままならず「いやーやっぱりせめて重傷者の数人は出して馬も2〜3頭は死んでてもらわないとねえ」ということになりかねない訳ですが、やるべきですか。 違うでしょう。 CGなら人が死にかねない設備を作り、戦場らしい人数を突撃させ、史実的には正しくても人馬をともに危険にさらす密度で軍勢を動かすことができるのですが。 実際には撮影隊が展開できない地形での戦場を作れる可能性も出てくる訳ですが。 その場合どっちが「忠実な再現」になるんでしょうね?
勿論技術的にまだ発展途上の粗さを見ることはあります。 ことにスタジオ内に作られた山道の空気感はちょっと屋外との違和感がある。 CGの制作現場と実写の撮影現場が別々であることの連携の難しさ、それぞれにコントロールしていく必要のある各種考証、他にも色々新しい技術を導入したからこそ変わらねばならない制作現場の流れや、やってみて初めて出てくる問題点もあるでしょう。 それでも、新しい技術で表現できることが増えていく可能性を私は信じたい。 人や馬のひとつひとつの動きに対する注目が低くなる遠景の「群」の中まで本物である必要がありますか。 本当はもっとこうなんだよ、という再現を、自由度の高いカメラアングルでの映像を、見てみたくありませんか。 CGを使えばこの先もっと進歩があるとするならば、それは試行錯誤しながら進む他ないのではないでしょうか。
だとすれば、CGの戦の何が悪い。 私はそう思うのです。
「どうする家康」:アイドルだからできること ― 2023/02/02
なんてったってアイドルなのである。
一般にアイドルの示すものは、若さである。
まだ役者・歌手・ダンサーその他の専門職に特化しておらず、どれでもなくそれだけにどの挑戦もする。
技術の足りない分を一生懸命さで補う。そのうち伸びた才能でプロになる。それまでの短い間を楽しむ、そういう存在である。
そしてまれに、その中でずっと「一生懸命」を売り続けられる人がいる。確かにどれに特化している訳でもないけれど、逆に他の誰かがその人になれるかというとなれない。
松本潤はその内の一人だと思う。
そして今回大河ドラマはその希有なベテランアイドルを殿様にいただくことになった。
それが「どうする家康」である。
アイドルを主演にするということはどういうことであるか。
まず浮かび上がるのはマイナス面である。
アイドルは、前述の通り「一生懸命」を売る存在であり、それは若さであり「未熟」のイメージが先に立つ。
俳優としてキャリアを積んだ人の方が、技術的に優れている筈だという印象が先行する。
しかし、松本潤はアイドルとしては歴戦の古参兵なのであることを忘れてはいけない。
アイドルという言葉でイメージする仕事の全てを、特化することなくまんべんなくキャリアを積んでいる。専業の人と違う経験の広さを持ち、かつ若いというイメージを持ち続けるだけのフィジカルがある。
新米将校より古参下士官の方が現場では偉い。「星の数よりメンコの数」である。
昨今実力が無ければ支えられないと言われる1年長期の大型枠を、十分支えられる強靱さは十分想定できるのである。
一方、アイドルのプラス面を考える。
未熟、というイメージは、逆に親しみやすさに繋がっている。
大河は歴史を扱うことで、事前に歴史の勉強がいるとか、学生時代に学科でひどい目にあったので歴史の学習に近づきたくないとか、「こわい」というイメージを持っている人がそれなりにいる。
勿論実際は大河ドラマといえどもフィクションであり、事前の知識なく見ただけでストーリーがわかるようにできている。
しかし見てもらわなければわからない。
こわくないライトなイメージで新規視聴者層を獲得する、そういう作品も作る必要がある。
これまでも作られてはきたのである。
華やかなビジュアルや軽やかさを重視した作品。
トンチキ大河、と後から振り返られる作品はそういう趣旨で作られたものと見て大体間違いがない筈だ。
それでもトンチキと笑われてしまう作品はリスクが高い。
若手俳優を使って空振りしてしまうと主演俳優のその後のキャリアを折る。ベテラン俳優に若作りなビジュアルをやらせて滑るのもつらい。
そこでアイドルである。
元々役者専業でない分「ちゃんとしている」期待値が低い。
思い切ったビジュアル重視、スピードと軽さを取り入れるのに向いているのではないか。
しかも1年の長期大型枠を乗り切る為の「ベテラン」としての力はキャリア相応に持っている。
ハードルの低い親しみやすさに振り切った大河を作るのに、今松本潤ほど適任な主演がいるだろうか。いやない。という結論を導き出して問題ないと思う。
ゲームのようだと言われるCGの様子、柘植伊佐夫デザインの華麗な戦装束、桶狭間直後の段階で既に「V6天魔王」の愛称が定着する織田信長のエキセントリックな様子に、「いいぞもっとやれ」という感想を深めています。
他に誰ができるというんだ、この方向性の大河を。
かつてのトンチキ大河をトンチキにしてしまったのは、見た目だけでなく中身も現代的にしよう、と現代的な恋愛事情や残酷さのソフト化、倫理的な社会常識を実際の歴史よりも優先したことにあります。
当時になかった筈のものを絶対扱わない、とすれば言葉は、服飾は、染色は、距離は……と、制限が多すぎてしかも一々に注釈がなくては伝わらない。到底1年間興味を引きつけることはできません。
かと言って、見た目だけが現代と違うだけで、ありきたりの言葉と筋書きが並んでいるだけでは、何で現代劇ではいけないのかという問いに答えられません。
違う常識と習慣のある社会の中、起きた事件の間に今の人としての感慨を持てるように物語を構築する。
それが歴史を扱うドラマの醍醐味でしょうし、長期大型枠でこそ大がかりに光るでしょう。
近年の織豊期の研究は急速に進み、資料も増え、ドラマの中に今と違う前提を持ち込んでも理解が得られやすい。
今時の脚本術であの頃トンチキと笑われた内容を作り直し、あの頃取り損ねた視聴者層を取り返しにきたのではないでしょうか。
見た目は笑ってしまう程わかりやすく漫画的ですが、4話まで見た限り歴史をうまくアレンジして今との違いを解説しつつ、物語の土台を堅実に作っている感じがします。
題材は大河王道の戦国、三英傑。
信長と秀吉が壊して潰して平らにしてしまった国を、固めなおして三百年の平穏をもたらした家康。
戦乱の果て、破壊の限りが尽くされる中を「もういやじゃぁぁぁ」と叫び続けて必死に生き残っていく人の一生は、メジャーの一線で「一生懸命」を売り続ける人が演じるのによく合った主題であるようにも思えます。
幼さを残す初陣の年頃から人生を終える老境に至るまで、人一人の人生を丸ごと演じる経験の果てに「アイドル」としてしか認識されていない人が、ともすれば見た目の軽さを侮られがちなこの大河と共にどうなるのか、この1年が楽しみです。
一般にアイドルの示すものは、若さである。
まだ役者・歌手・ダンサーその他の専門職に特化しておらず、どれでもなくそれだけにどの挑戦もする。
技術の足りない分を一生懸命さで補う。そのうち伸びた才能でプロになる。それまでの短い間を楽しむ、そういう存在である。
そしてまれに、その中でずっと「一生懸命」を売り続けられる人がいる。確かにどれに特化している訳でもないけれど、逆に他の誰かがその人になれるかというとなれない。
松本潤はその内の一人だと思う。
そして今回大河ドラマはその希有なベテランアイドルを殿様にいただくことになった。
それが「どうする家康」である。
アイドルを主演にするということはどういうことであるか。
まず浮かび上がるのはマイナス面である。
アイドルは、前述の通り「一生懸命」を売る存在であり、それは若さであり「未熟」のイメージが先に立つ。
俳優としてキャリアを積んだ人の方が、技術的に優れている筈だという印象が先行する。
しかし、松本潤はアイドルとしては歴戦の古参兵なのであることを忘れてはいけない。
アイドルという言葉でイメージする仕事の全てを、特化することなくまんべんなくキャリアを積んでいる。専業の人と違う経験の広さを持ち、かつ若いというイメージを持ち続けるだけのフィジカルがある。
新米将校より古参下士官の方が現場では偉い。「星の数よりメンコの数」である。
昨今実力が無ければ支えられないと言われる1年長期の大型枠を、十分支えられる強靱さは十分想定できるのである。
一方、アイドルのプラス面を考える。
未熟、というイメージは、逆に親しみやすさに繋がっている。
大河は歴史を扱うことで、事前に歴史の勉強がいるとか、学生時代に学科でひどい目にあったので歴史の学習に近づきたくないとか、「こわい」というイメージを持っている人がそれなりにいる。
勿論実際は大河ドラマといえどもフィクションであり、事前の知識なく見ただけでストーリーがわかるようにできている。
しかし見てもらわなければわからない。
こわくないライトなイメージで新規視聴者層を獲得する、そういう作品も作る必要がある。
これまでも作られてはきたのである。
華やかなビジュアルや軽やかさを重視した作品。
トンチキ大河、と後から振り返られる作品はそういう趣旨で作られたものと見て大体間違いがない筈だ。
それでもトンチキと笑われてしまう作品はリスクが高い。
若手俳優を使って空振りしてしまうと主演俳優のその後のキャリアを折る。ベテラン俳優に若作りなビジュアルをやらせて滑るのもつらい。
そこでアイドルである。
元々役者専業でない分「ちゃんとしている」期待値が低い。
思い切ったビジュアル重視、スピードと軽さを取り入れるのに向いているのではないか。
しかも1年の長期大型枠を乗り切る為の「ベテラン」としての力はキャリア相応に持っている。
ハードルの低い親しみやすさに振り切った大河を作るのに、今松本潤ほど適任な主演がいるだろうか。いやない。という結論を導き出して問題ないと思う。
ゲームのようだと言われるCGの様子、柘植伊佐夫デザインの華麗な戦装束、桶狭間直後の段階で既に「V6天魔王」の愛称が定着する織田信長のエキセントリックな様子に、「いいぞもっとやれ」という感想を深めています。
他に誰ができるというんだ、この方向性の大河を。
かつてのトンチキ大河をトンチキにしてしまったのは、見た目だけでなく中身も現代的にしよう、と現代的な恋愛事情や残酷さのソフト化、倫理的な社会常識を実際の歴史よりも優先したことにあります。
当時になかった筈のものを絶対扱わない、とすれば言葉は、服飾は、染色は、距離は……と、制限が多すぎてしかも一々に注釈がなくては伝わらない。到底1年間興味を引きつけることはできません。
かと言って、見た目だけが現代と違うだけで、ありきたりの言葉と筋書きが並んでいるだけでは、何で現代劇ではいけないのかという問いに答えられません。
違う常識と習慣のある社会の中、起きた事件の間に今の人としての感慨を持てるように物語を構築する。
それが歴史を扱うドラマの醍醐味でしょうし、長期大型枠でこそ大がかりに光るでしょう。
近年の織豊期の研究は急速に進み、資料も増え、ドラマの中に今と違う前提を持ち込んでも理解が得られやすい。
今時の脚本術であの頃トンチキと笑われた内容を作り直し、あの頃取り損ねた視聴者層を取り返しにきたのではないでしょうか。
見た目は笑ってしまう程わかりやすく漫画的ですが、4話まで見た限り歴史をうまくアレンジして今との違いを解説しつつ、物語の土台を堅実に作っている感じがします。
題材は大河王道の戦国、三英傑。
信長と秀吉が壊して潰して平らにしてしまった国を、固めなおして三百年の平穏をもたらした家康。
戦乱の果て、破壊の限りが尽くされる中を「もういやじゃぁぁぁ」と叫び続けて必死に生き残っていく人の一生は、メジャーの一線で「一生懸命」を売り続ける人が演じるのによく合った主題であるようにも思えます。
幼さを残す初陣の年頃から人生を終える老境に至るまで、人一人の人生を丸ごと演じる経験の果てに「アイドル」としてしか認識されていない人が、ともすれば見た目の軽さを侮られがちなこの大河と共にどうなるのか、この1年が楽しみです。
「作りたい女と食べたい女」:食べるように、当然に。 ― 2022/12/19
1:「つくりたい」と「たべたい」はWin-Winか?
沢山作りたいのに小食である野本さんと、いっぱい食べたい春日さんの出会いから物語は始まる。
いかにも互いの利害が一致した幸せな出会いに思える、が少し待って欲しい。
「つくりたい」と「たべたい」は当然に引き合う話だろうか。
作中の野本さんのモノローグを引く。
「自分が好きでやってることを全部男のためだって回収されるの、つれーなー……」
料理を作る趣味が恋人や家庭に奉公する下準備として扱われがちなのは、それだけ趣味の労力にただ乗りするケースが多いということだ。
一方で、食べきれない量の料理は野本さんにとって作品である反面、不要品でもある。
不要品を受け入れる関係。
そう考えてしまうとこれもひどく冷たく響く。
食べることは処理ではないし、一方的な施しを受ける理由もない。
つまり「つくりたい」と「たべたい」は間に良好なコミュニケーションがなければ利己的な願望の組み合わせに過ぎず、だからこそラブストーリーの命題になった。
改めて野本さん、春日さんにとって「つくりたい」「たべたい」の意味を考えてその仲立ちが「食事」でなければならなかったのかを考えたい。
2:心を満たすための「つくりたい」・野本ユキの料理
野本さんの料理は、趣味である。
自分の三食は日常の生活の領域だけれど、そこを超えたところが趣味になる。
作らなくてもいいが「つくりたい」。
それが趣味としての料理であり、何故必要なのかと言えば日常から少し離れた世界を作るためである。
日常からの逸脱は心に余裕を作り、活気を取り戻す。
野本さんの料理の原風景は「ぐりとぐら」の巨大カステラはじめ、絵本や児童文学の祝祭的な料理にある。
だからこそ原風景に触れる為には量が要る。取り戻したい元気が多ければ多いほど大量になる。
自分の食べられる量を過ぎればそれは勿論余るけれど、心のために必要であり、心に必要なものだったからこそ野本さんは残りの部分をも大事にしてきた。雑な振る舞い方も廃棄もしていない。
作れたらいい訳でも食べてもらえたらいい訳でもない。
見ただけで非日常とわかる菓子や海外の変わった料理ではなく、家庭料理の範囲で量だけを非日常にする。野本さんの料理は一見趣味とわかりづらい。
だからこそより「男」「家庭」と日常の拡大を望んでいると思われがちになるだろう。「回収」である。
自分の心の拠り所、不可侵の領域を他人の日常に回収されるのは、尊厳の侵害に近い。
野本さんは作りきった非日常を、処理能力の低い自分の日常に回収しなければならないことを嘆きながら誰も招いてこなかった。
他人に踏み込まれたくない場所だからである。
では本当に他人は必要なかったのか。
己が日常に組み込んで奉仕させることを当然とせず、自分の大事に作ったものを同じような大事さで扱ってくれる評価者は、作り上げた非日常の回復効果をより高めてくれるのではないか。
イマジナリーな動物たちでしか果たせなかった、その部分。
「お鍋をからっぽにしてくれる人」である。
3:自主独立の為の「たべたい」・春日十々子の食事
春日さんの食事は、人生である。
大柄で筋肉質な体と力仕事が要求するカロリーであり、そして実家で強いられてきた抑圧から逃げて現状勝ち得ている自由の象徴である。
男尊女卑のコントロールを強く敷いた実家で女という理由で劣位に置かれ、食べ物の量も家事の負担も男と違いテレビを見る位置も制限され、隠れ食べが見つかることにさえ怯える日々。
だからこそ今なお勝手に量を減らされること、食べ方に口を出されることに彼女は静かに、しかし確実に怒るのである。
「普通に、ついでください」
たかが量、ではない。
「減らしておきました」は動機が善意であっても「女であることを理由に権利の制限を受けた」なのである。
餃子の食べ方について管を巻く酔客については言うまでもない。
食事は彼女にとって人権である(勿論他の誰にでも、であるのだが)。
常に守る意識がないと、刷り込まれた抑圧の習慣に呑まれて奪われそうな、孤独で繊細な戦いでもある。
食べたいものを、他人からの制限なく、食べたい量食べる。
それが彼女の心を守る。
だから春日さんはフライドチキンのバーレルふたつとそれ以上、人目に立つ店内ではなく自分一人のための大きなテレビと、自分の体が伸び伸び過ごせるベッドのある自分の城で食べるのである。
他人に踏み込まれたくない場所だからである。
しかし、ずっと一人でいるからこそ意識の底は実家の軛から抜け切れていない。
弱みを見せない、借りを作らない、礼儀正しさの鉄壁。
鉄壁故に他人を近寄せない、愛想のなさ。
味方が欲しいと思うことさえきっと「弱み」と思ってきただろう。しかし孤独な戦いを続ける彼女を肯定してくれる味方は本当は必要だった。
そう思う。
思えば春日さんは常に常軌を逸した量を食べている訳ではない。
唐揚げ定食ご飯大盛り程度の、普通によく食べる人の食べ量だ。
フライドチキンの日、餃子三人前とご飯大盛りの日、きっと彼女にはストレスの溜まることがあったのだ。
会社の飲み会で大皿からほんの少しの取り分しか回ってこなかった日のように。
あの日の彼女を救ったのは、野本さんの「差し入れ」だっただろう。
野本さんは決して春日さんの胃袋だけをつかんだのではない。
4:食べ物だからこそ、描ける愛
「つくる」と「たべる」にそれぞれの生き辛さを乗せて、二人の繋がりが始める。
始めは野本さんが特盛りのルーロー飯を出し、春日さんが食べる。
言ってみれば「物」としての授受だった。
「つくる」理由を聞かずに食べて欲しい野本さんと、「食べる」ことに口を出されたくない春日さんとでは、おそらくその始まり方がベストだった。
理由や事情に触れるのは、心の一番敏感な部分に踏み込むことだったからである。
野本さんが春日さんの食べっぷりに惚れ込むのは、作る理由を解釈されないからでもある。
春日さんが野本さんの料理に誘われるのは、食べ物を通じた支配を受ける気配がないからでもある。
対価の収受によって心理的な不均衡を是正し、持続的な関係を求めるようになるまでは割とすぐ。
二人で食べるようになり、度を超した特盛り料理が減り、春日さんは会話を楽しむようになり、野本さんは一人ではあまり飲まない酒を楽しむようになる。
無機質な物体のやりとりでは既にない。食事はコミュニケーションの場になっている。
ストレスをぶつける「つくる」「たべる」から、二人の食卓を楽しむようになったということである。
その末に、互いに「つくる」「たべる」の一番触れられたくないところを打ち明け、共感するに至る。
その後で作られるシュトーレン風パウンドケーキ、春日さんは少しずつ食べるルールに抑圧を感じないし、野本さんはちまちま食べる春日さんの姿も変わらず愛す。
触れられたくないセンシティヴ、ただの物体、コミュニケーションと信頼の深まる様子。
それぞれの中で食べることの意味が変わることで、人生が他人と生きる形に変わっていることを示す。
それはやはり友情でなく恋愛の結果なのだ。
そしてその関係と心理状態の変遷を示すバロメーターに適切な物体は何か、と思えばやはり食べ物であったろう。
「作りたい女と食べたい女」は、レズビアンを題材に取るまだ数の少ない作品である。
作品からはごく普通の、真面目に、生き辛さを抱えて生きる人が、普通に恋に落ちる相手が同性でありうる、その当たり前を描く意志を強く感じる。
恋愛の相手を捜しているわけでもない、むしろすぐ結婚に結びつく恋愛の話に疎ましささえ感じる、30代の女性である野本さん。
等身大の人が、生きてる限り誰もがする食事を通じて、恋をする。
普通を重ねた先にあることは、当然普通だという導線の作り方。
そして身長の高いがっしりした体で愛想のない大食漢、と「女性らしさ」の逆を取るように、それでも「男の代役」にならないよう長髪と丁寧な言葉付きに設定された春日さんのバランス。
等身大の野本さんと少し異質の春日さんとを組み合わせることで、女とは何か女らしさとは何か、そして恋の相手に限らず「何故女ではいけないのか」という意識へも導いている。
特殊な人の変わった性指向でもなく、未熟な故の恋愛と友情との混同でもなく、普通に恋愛の範囲と伝わるようであれと。
好奇の目で見られやすい性的な要素を極力省いたこの作品で、二人が運命の人になっていく過程を示すなら、やはり食べ物を通じて描くことがよかっただろうと思う。
食べること程人類普遍の、心と直結した行動はないのだから。
ドラマ版は原作の繊細さと主張を踏まえ、テレビという発信側からは視聴層の選択ができない特性から考証を更に確実に取り、優しく力強く物語をアピールする佳品だったと思います。
公式サイトに掲載される制作に関する記事や、全スタッフリスト(「全員」公表されるのは珍しいことなのです)を普段公式サイトまで当たらない人も見て欲しい。
LGBTQ+やジェンダーバランスの問題だけでなく、これからの働き方やドラマのあり方へのひとつの提言なのだと思います。
沢山作りたいのに小食である野本さんと、いっぱい食べたい春日さんの出会いから物語は始まる。
いかにも互いの利害が一致した幸せな出会いに思える、が少し待って欲しい。
「つくりたい」と「たべたい」は当然に引き合う話だろうか。
作中の野本さんのモノローグを引く。
「自分が好きでやってることを全部男のためだって回収されるの、つれーなー……」
料理を作る趣味が恋人や家庭に奉公する下準備として扱われがちなのは、それだけ趣味の労力にただ乗りするケースが多いということだ。
一方で、食べきれない量の料理は野本さんにとって作品である反面、不要品でもある。
不要品を受け入れる関係。
そう考えてしまうとこれもひどく冷たく響く。
食べることは処理ではないし、一方的な施しを受ける理由もない。
つまり「つくりたい」と「たべたい」は間に良好なコミュニケーションがなければ利己的な願望の組み合わせに過ぎず、だからこそラブストーリーの命題になった。
改めて野本さん、春日さんにとって「つくりたい」「たべたい」の意味を考えてその仲立ちが「食事」でなければならなかったのかを考えたい。
2:心を満たすための「つくりたい」・野本ユキの料理
野本さんの料理は、趣味である。
自分の三食は日常の生活の領域だけれど、そこを超えたところが趣味になる。
作らなくてもいいが「つくりたい」。
それが趣味としての料理であり、何故必要なのかと言えば日常から少し離れた世界を作るためである。
日常からの逸脱は心に余裕を作り、活気を取り戻す。
野本さんの料理の原風景は「ぐりとぐら」の巨大カステラはじめ、絵本や児童文学の祝祭的な料理にある。
だからこそ原風景に触れる為には量が要る。取り戻したい元気が多ければ多いほど大量になる。
自分の食べられる量を過ぎればそれは勿論余るけれど、心のために必要であり、心に必要なものだったからこそ野本さんは残りの部分をも大事にしてきた。雑な振る舞い方も廃棄もしていない。
作れたらいい訳でも食べてもらえたらいい訳でもない。
見ただけで非日常とわかる菓子や海外の変わった料理ではなく、家庭料理の範囲で量だけを非日常にする。野本さんの料理は一見趣味とわかりづらい。
だからこそより「男」「家庭」と日常の拡大を望んでいると思われがちになるだろう。「回収」である。
自分の心の拠り所、不可侵の領域を他人の日常に回収されるのは、尊厳の侵害に近い。
野本さんは作りきった非日常を、処理能力の低い自分の日常に回収しなければならないことを嘆きながら誰も招いてこなかった。
他人に踏み込まれたくない場所だからである。
では本当に他人は必要なかったのか。
己が日常に組み込んで奉仕させることを当然とせず、自分の大事に作ったものを同じような大事さで扱ってくれる評価者は、作り上げた非日常の回復効果をより高めてくれるのではないか。
イマジナリーな動物たちでしか果たせなかった、その部分。
「お鍋をからっぽにしてくれる人」である。
3:自主独立の為の「たべたい」・春日十々子の食事
春日さんの食事は、人生である。
大柄で筋肉質な体と力仕事が要求するカロリーであり、そして実家で強いられてきた抑圧から逃げて現状勝ち得ている自由の象徴である。
男尊女卑のコントロールを強く敷いた実家で女という理由で劣位に置かれ、食べ物の量も家事の負担も男と違いテレビを見る位置も制限され、隠れ食べが見つかることにさえ怯える日々。
だからこそ今なお勝手に量を減らされること、食べ方に口を出されることに彼女は静かに、しかし確実に怒るのである。
「普通に、ついでください」
たかが量、ではない。
「減らしておきました」は動機が善意であっても「女であることを理由に権利の制限を受けた」なのである。
餃子の食べ方について管を巻く酔客については言うまでもない。
食事は彼女にとって人権である(勿論他の誰にでも、であるのだが)。
常に守る意識がないと、刷り込まれた抑圧の習慣に呑まれて奪われそうな、孤独で繊細な戦いでもある。
食べたいものを、他人からの制限なく、食べたい量食べる。
それが彼女の心を守る。
だから春日さんはフライドチキンのバーレルふたつとそれ以上、人目に立つ店内ではなく自分一人のための大きなテレビと、自分の体が伸び伸び過ごせるベッドのある自分の城で食べるのである。
他人に踏み込まれたくない場所だからである。
しかし、ずっと一人でいるからこそ意識の底は実家の軛から抜け切れていない。
弱みを見せない、借りを作らない、礼儀正しさの鉄壁。
鉄壁故に他人を近寄せない、愛想のなさ。
味方が欲しいと思うことさえきっと「弱み」と思ってきただろう。しかし孤独な戦いを続ける彼女を肯定してくれる味方は本当は必要だった。
そう思う。
思えば春日さんは常に常軌を逸した量を食べている訳ではない。
唐揚げ定食ご飯大盛り程度の、普通によく食べる人の食べ量だ。
フライドチキンの日、餃子三人前とご飯大盛りの日、きっと彼女にはストレスの溜まることがあったのだ。
会社の飲み会で大皿からほんの少しの取り分しか回ってこなかった日のように。
あの日の彼女を救ったのは、野本さんの「差し入れ」だっただろう。
野本さんは決して春日さんの胃袋だけをつかんだのではない。
4:食べ物だからこそ、描ける愛
「つくる」と「たべる」にそれぞれの生き辛さを乗せて、二人の繋がりが始める。
始めは野本さんが特盛りのルーロー飯を出し、春日さんが食べる。
言ってみれば「物」としての授受だった。
「つくる」理由を聞かずに食べて欲しい野本さんと、「食べる」ことに口を出されたくない春日さんとでは、おそらくその始まり方がベストだった。
理由や事情に触れるのは、心の一番敏感な部分に踏み込むことだったからである。
野本さんが春日さんの食べっぷりに惚れ込むのは、作る理由を解釈されないからでもある。
春日さんが野本さんの料理に誘われるのは、食べ物を通じた支配を受ける気配がないからでもある。
対価の収受によって心理的な不均衡を是正し、持続的な関係を求めるようになるまでは割とすぐ。
二人で食べるようになり、度を超した特盛り料理が減り、春日さんは会話を楽しむようになり、野本さんは一人ではあまり飲まない酒を楽しむようになる。
無機質な物体のやりとりでは既にない。食事はコミュニケーションの場になっている。
ストレスをぶつける「つくる」「たべる」から、二人の食卓を楽しむようになったということである。
その末に、互いに「つくる」「たべる」の一番触れられたくないところを打ち明け、共感するに至る。
その後で作られるシュトーレン風パウンドケーキ、春日さんは少しずつ食べるルールに抑圧を感じないし、野本さんはちまちま食べる春日さんの姿も変わらず愛す。
触れられたくないセンシティヴ、ただの物体、コミュニケーションと信頼の深まる様子。
それぞれの中で食べることの意味が変わることで、人生が他人と生きる形に変わっていることを示す。
それはやはり友情でなく恋愛の結果なのだ。
そしてその関係と心理状態の変遷を示すバロメーターに適切な物体は何か、と思えばやはり食べ物であったろう。
「作りたい女と食べたい女」は、レズビアンを題材に取るまだ数の少ない作品である。
作品からはごく普通の、真面目に、生き辛さを抱えて生きる人が、普通に恋に落ちる相手が同性でありうる、その当たり前を描く意志を強く感じる。
恋愛の相手を捜しているわけでもない、むしろすぐ結婚に結びつく恋愛の話に疎ましささえ感じる、30代の女性である野本さん。
等身大の人が、生きてる限り誰もがする食事を通じて、恋をする。
普通を重ねた先にあることは、当然普通だという導線の作り方。
そして身長の高いがっしりした体で愛想のない大食漢、と「女性らしさ」の逆を取るように、それでも「男の代役」にならないよう長髪と丁寧な言葉付きに設定された春日さんのバランス。
等身大の野本さんと少し異質の春日さんとを組み合わせることで、女とは何か女らしさとは何か、そして恋の相手に限らず「何故女ではいけないのか」という意識へも導いている。
特殊な人の変わった性指向でもなく、未熟な故の恋愛と友情との混同でもなく、普通に恋愛の範囲と伝わるようであれと。
好奇の目で見られやすい性的な要素を極力省いたこの作品で、二人が運命の人になっていく過程を示すなら、やはり食べ物を通じて描くことがよかっただろうと思う。
食べること程人類普遍の、心と直結した行動はないのだから。
ドラマ版は原作の繊細さと主張を踏まえ、テレビという発信側からは視聴層の選択ができない特性から考証を更に確実に取り、優しく力強く物語をアピールする佳品だったと思います。
公式サイトに掲載される制作に関する記事や、全スタッフリスト(「全員」公表されるのは珍しいことなのです)を普段公式サイトまで当たらない人も見て欲しい。
LGBTQ+やジェンダーバランスの問題だけでなく、これからの働き方やドラマのあり方へのひとつの提言なのだと思います。
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