「鎌倉殿の13人」:終盤の義時と史劇の役割2022/11/09

1:正直、しんどい。

 原因は薄々わかっている。実朝と義時、政子の確執である。
 ちゃんと鎌倉時代を学問として学んでいない私のような人でも、近年実朝の再評価が進んでいるのは知っていた。
 繊細で実権を握られた哀れなオタク・貴族趣味の虚弱なうらなりビョウタンではない、ちゃんと政治的意欲もあり、朝廷とつきあう上でその歌才は相手の言語で話せる外交能力としても生きた。
 苦労はあったろう、軋轢もあったろうが、実朝を暗殺する陰謀を動かすメリットはおそらくどこの勢力にもなかった。
 その暗殺は公暁の単独犯説が有力である。
 というような、一般向けの談話と言えども史学的な根拠のある話をかじった結果、実朝の出現には期待があったのである。
 再評価を更に踏み込んで、それでも尚力不足であり、朝廷に危うい傾倒を見せ義時を敵視するようになっていく実朝と、それを力で押さえて煽るような義時になるとは考えていなかった。
 確かに「吾妻鏡」をベースに(関係良好を示す逸話もあるのに)過去幾多の実朝暗殺に関わる陰謀黒幕説が生まれているのだから、「吾妻鏡」からは外れてないと言われればそうなのだけど。

 しかし、過去の作品からも考証陣の選択から最新学説に気を払い、コミュニケーションの頻度も膨大と知られる三谷大河を思うと、作者が公暁単独犯他現状のスタンダードを知らない筈がないのです。
 とすれば、物語として敢えて深い対立を組む必要があったということです。
 おそらくそれは義時と実朝ではなく、義時と後鳥羽上皇との二項対立。
 二項対立の果てに、承久の乱を置いて物語を終わりにする。
 それは何故か、を考えるとすれば「両方消えてもらう」対消滅の構図になるのではないか。
 後鳥羽上皇が示すのは、既にピークは遠く去った王朝政治への復古。これと対消滅しなければならないのならば「国の成り立ちを根こそぎ変える」戦に始まる大変革の時期を生きてきた義時は、既に古い時代の亡霊と化していることになる。
 社会が大きく変化し、変化に対する反発から揺り戻しが来てまたそれを超えて前に進む変革の時期を終え、安定に向けて進まなければならない情勢の中で「潰す」以外の問題解決策を出せなくなった男は役目を終えるのである。


2:実朝に隠された解

 義時が消えなければならないのは、「板東武者の世を作る」宗時の言葉を変えられないからである。
 義時はこの「板東武者の世」の具体像を形にはできていないけれど、昔からの言葉をたどれば、板東と違う土地からの干渉を徹底的に排除した、板東独立軍事政権である。
 頼朝から政治の全てを教わった板東者である自分が、彼の血統をお飾りに頂いて「てっぺん」に君臨する。
 しかし、勢力の版図は既に日本全国にわたっている「鎌倉幕府」の中枢が板東のことしか頭になくていいのか。
 結局自分の領土に干渉する「東の奴ら」に不満を抱いた西国側、もしくは東北から、いずれ反抗される。
 二項対立の構図は、どちらかの殲滅かどちらかに併呑されるか、そのどちらかにしか落ち着かない。
 鎌倉幕府を守るなら、全国を考える立場にならなければならないのである。

 実朝が皇室の血筋を鎌倉幕府の形式上のNo.1に据えようというのは全体的に見れば間違いではない。
 この国の歴史を振り返れば、形式的なNo.1を実務上のNo.1と分け「No.1に殺されないNo.2」を作ることで政権が安定するようにできている。
 形式上のNo.1が実務上のNo.1に統治の正当性を与えるので、形式上No.2に甘んじる実務上のNo.1は形式上のNo.1を消し去ることができない。
 No.1の首がすげ替えられることはあっても、ひとまず共存することができる。
 天皇が直接政治を司る時代から実権が藤原摂関家へ移った歴史だけでなく、目を転じれば将軍を「お飾り」に置いて執権が実務を握るのも同じである。
 本作の実朝、言い出す施策そのものは史実通りそれなり正解なのだけど、その策が出てくる基盤がとんでもない感情論なので、正解としての説得力を失うとても残念な造形になっている。
 義時への恨みが実朝の原動力であるのが明らかであり、御鳥羽院を冷静に見ておらず、しかも公暁を完全に無視している問題が先に立つ。
 しかし自らお飾りとして価値の高いNo.1を迎えいれるのは政策として悪くなかったのである。
 皇族将軍の後見をする実朝の傍で、結局実務を任されるだろう泰時を残して義時は引退すればよかったのである。
 実朝に実子は生まれない。新血統の将軍は実朝が大御所のポジションを手放さないのであれば、実朝を凌駕する実務力を持たせられない。
 結果はきっと実朝の血統が続いた場合と変わりなかった。
 今度こそ隠居を引き留められはしなかったろうし、朝廷に鎌倉幕府の正当性を保証されれば幕府の地位は安定する。
 ふたつに別れた勢力を再びひとつの構造の内へ戻す試みは、時代の要請である。再び「新世界より」をBGMに発表されるに相応しい。
 いつまでも「西の奴ら」と「板東の我ら」で対立しようという概念こそ前時代の亡霊となるのである。


3:遠き山に日は落ちて

 板東をつぶし王朝政治への復古を目指す上皇と、西からの干渉を潔癖に排除せねば幕府が潰れると信じる義時が、共に消えて初めて次の世界に社会は進む。
 それを示すのならば、両者共に消えて清々したと言われる程に、醜悪でなければならない。
 散って美しい夢となる「敗者の美」ではなく、朽ち倒れることで森に光を導く「勝者の滅び」である。

 その滅びを劇的に飾る為、本作は上皇と義時の二項対立を史実を超えて強調してきている。
 畠山の乱に繋がる北条範政の死因、和田合戦に至る謀反計画を持ちかけた謎の男泉親衡の正体。
 明確な証拠のないグレーゾーンに全力で叩き込まれる上皇の差し金。
 血縁なき弟という義時の傷、神剣なき帝という上皇の傷。
 狙われた恐怖と反撃の恐怖とが義時と上皇を醜悪に追い込んでいくだろう。
 慈円の言うとおり「最も自分に似た者が最もおそろしい」のだから。
 姿が見えるようで見えない位置からの攻撃に身構える恐怖が人の思考を変質させ、相手がいる限り自分が死ぬと思い決める。
 そして至った対決の果てに生き残った側も深刻なダメージに自分を維持できず、ほどなく消える。
 クリスティの「そして誰もいなくなった」を思わせる構図です。
 誰が生き残った「最後の一人」を追い込んで片づけることになるのか。

 望んだかどうだかわからない内に「この国の成り立ちを根こそぎ変えてしまった未曾有の大戦」に巻き込まれ、前例のない中で必死に戦後の安定を目指し、果たせず、成果は次代に託さなければならない。苦労は多く省みられることの薄い人生。
 三谷幸喜が「北条義時の大河ドラマ」をそう作る意図はなんだろう。
 実朝と、あるいは政子と「史実」にない程険悪にしてまで、義時に正しさも意義も目立たない徒労の人生を送らせる意味は。
 しかしここで今視聴者として想定される人の過ごす、限界まできた長年の不景気に、コロナ禍に、疲弊しきった社会情勢を考える。
 自分の夢だったのかもわからない社会の変化に巻き込まれ、何が正解だかわからないまま周囲の意図を酌んで動くしかなく、その結果には自分も他人も何となく不満を残し、じゃあいっそ全てを変えてやり直そうかという程の気力も残っていないままぼんやりと昨日の続きの日を送る。
 そんな小四郎義時の姿は、割と今等身大の主人公なのではなかろうか。
 その姿に憧れるのではなく、「おまえ一人の悩みではない」と思う為の小四郎義時なのではなかろうか。
 物語は常に同年代の観客に向けて作られる。
 過去の現実を検証し積み重ねていく史学の再現ではなく、人一人の人生を歴史の上に物語として書く意味は「おまえ一人の悩みではない」なのではないかと思うのです。
 自分の生まれる遙か前から、自分の死んだ遙か先にも。
 その上で、今の生活にほんの少し前を向く勇気を。
 それが先に生きる誰かを救うかもしれない。
 正しくも強くもない大多数の人に向けた、主人公としての解。
 これがひとつの集大成なんだなあと、小四郎の孤独を思うのです。

スカーレット・プリンセス」:違う視点を得る幸せ2022/11/13

1:違うことがある意味は。

「スカーレット・プリンセス」の、「桜姫東文章」のテキストを舞台形式まで美しく翻案された演出の美しさは、既に2020年のルーマニア・シビウ国際演劇祭のオンライン配信で見たときに述べました。
(http://12digit-cactus.asablo.jp/blog/2020/06/23/9260702)
 そして念願の観劇を果たし、改めて考えることがありました。
 プルカレーテの演出によって整理と再構築を果たした「スカーレット・プリンセス」は当然ながら歌舞伎で見る「桜姫吾妻文章」と完全に同じではない。
 通常の演劇と同じように、あの長い長い入り組んだテキストを読んで、上演に丸一日かける通し狂言を3時間弱の舞台脚本に直したのであるから、その行程にはプルカレーテの理解と解釈が大きく加わり、それを舞台にかける意味を定義されている。
 その結果だと思う。
 人物の心情の動き、運命の中で不可思議な人の動きの意義、物語としての流れはおそらく「桜姫東文章」より細かくわかりよくなっていると思います。
 清玄が彼女と結ばれないロジックはどこに原因があるのか。
 犯されて権助に惚れる桜姫の不思議はどうなっているのか。
 権助が「奪った家宝」でも「桜姫」でも利益が得られないロジック。
 そして、清玄と権助の間柄は。
 歌舞伎ではある程度「そういうものです」と流されていく人物の造形も、演劇として再構築する為にはきちんと作り込まなくてはならない。
 そこに演出家の意図があり、俳優たちの表現が乗る。
 それは「イギリス人が外国人のシェイクスピアを許すように(本作に違和感があっても)許してください」というプルカレーテのコメントが示すように、演劇化したからこそ生じた解釈であり、むしろ逆に歌舞伎の理解を深めることに繋がるでしょう。
 オンライン配信では英語で読んだ字幕を今回日本語で読むことができ、おそらく配信で見たバージョンの後から追加になったのだろう部分も加味して、改めて人物の造形と清玄ー白菊丸ー桜姫ー権助の三人四者の関係性も浮かび上がるように思いました。
 白菊丸と桜姫、清玄と権助、それぞれ同じ役者が演じる別人同士という組み合わせで考えた上で、この四者をつなぐ筋を考えていきます。


2:白菊丸と桜姫、縒り合わさる運命の糸

 物語の始まりは、来世の結婚を約束した清玄と白菊丸の心中でした。
 死に後れた清玄は生き続け、死にきった白菊丸ひとり約束通り。清玄の名を記した香箱の蓋を握りしめて女に生まれてきた。
 しかし、桜姫となった彼女は清玄には興味を示さず、清玄と同じ顔をした弟の権助に恋をする。
 二度にわたって犯され、捨てられた上身分を失い、女郎屋に売られ、尚妻だと言い張り執着する。
 にも関わらず、権助の正体が信夫の惣太、すなわち「都鳥の印章」を強奪し家名断絶に追い込んだ父と弟の仇、と知るや彼女は権助を撃ち殺して「都鳥の印章」を奪還し、それを献上するところでフィナーレに至る。

「桜姫東文章」と変わらないあらすじですが、その難解さは、ひとえに全く一貫性のない桜姫の心の動きにあると言っていいでしょう。

 ここで、ひとつ疑問があります。
 白菊丸はひとり生き残った清玄の裏切りを知っているか。
 知った上で転生したなら、裏切られた恨みは当然残るでしょう。清玄を全く覚えておらず、辛く当たって顧みないのはその為だと考えることもできます。
 この場合、生まれ変わった目的に「結婚」という要素が捨てきれなかったことが、恋の相手の歪んだ理由になります。
 では清玄の裏切りを知らず、生まれ変わりがいることを信じて結婚のため転生したら。
 白菊丸の思う「結婚」が具体的には男同士で果たせぬ妊娠と出産であったとしたら。
 顔もしかとわからぬ暗闇で与えられたセックスと結果としての妊娠・出産があって、その相手が「約束されし相手=清玄の生まれ変わり」以外の何なのだと執着するに足る十分な理由があることになります。
 清玄の祈りによって手が開き香箱によって白菊丸の転生である証明が成されるのに、桜姫が頑なに清玄を拒むことを考えれば前者、恨みも持って生まれてきたが結婚の願いが残っているので筋違いの恋に狂うことになる。
 この場合権助が清玄と瓜二つであることに「それでも清玄への愛着が捨てきれていない」意味を見ることができます。
 結婚の宿願が果たされたのにそれを否定するような事象を認める訳にいかないとするならば後者、運命の相手を否定するが故に清玄が疎まれることになる。
 この場合は暗闇で出会い、その時から恋の狂奔が始まっているのだから権助が清玄と同じ顔をしていることにそもそも意味などないことになります。

 私としては権助と清玄が瓜二つ、という設定に意味がないというのは少々無理があるかなと思うので、清玄への恨みを前提の中に含みたいと考えます。それでも恨みの中に捨てきれぬ愛がある。
 清玄には思い知らせてやりたくても、清玄とは結ばれたい。
 運命でなく子供を生まされたとは思いたくない。
 その矛盾した懊悩がある方が、白菊丸の「結ばれたと信じたい」が為に権助に執着する狂おしさがあるように思うのです。

 では、桜姫としては権助への執着はどうなのか。
 まずもって白菊丸の因縁とは別に桜姫としての人格はあるのかと言えば、私はあると考えた方が合理的だろうと思います。
 しとやかな姫の本性が恋の狂奔だというなら、出家によって恋そのものを断つ望みは出てこないでしょう。
 桜姫は大身吉田家の屋敷深くに育てられた姫君です。強姦され子供を産まされながら権助が忘れられず、腕に手がかりを刺青せずにいられない自分の異様な想いが怖かったのではなかろうか。
 ごく普通の少女ならそうだろう。
 自分の中に、自分以外の何者かがいる。生まれつき何かを握って動かぬ左手は如何にも何かの因果に思える。
 だからこそ出家することに救いを求めたのではないかと思います。
 清水寺で清玄に会ってしまい、手から落ちる香箱の蓋に桜姫がいっそう強く出家を望むのは何故か。身の内に白菊丸としての激情の気配を感じたのではないか。そこへより一層激情を揺さぶる権助が現れてしまう悲劇。
 気がついたら境内での淫行を受け入れ、身分を無くしていたのかもしれないと思うと。仏も家も彼女を救ってはくれない、因果の絶望。

 結局この恋の因果が消えるきっかけが「権助の正体が信夫の惣太」であるという告白になります。
 それはそれであまりにあっけなく。
 信夫の惣太は、桜姫にとって父と弟の仇。
 この名前でわき起こる怒りは、今度は白菊丸としての意識を圧倒したのか。それともさしもの白菊丸の激情も、清玄の亡霊と所詮代替品の権助の度重なる仕打ちで弱っているのか。
 正体を知って、夢は醒めたか。
 酒を勧めて権助を酔い潰し、赤子を殺して権助を撃ち殺す。
 カツラを取って白菊丸と同じ坊主頭、桜姫に着せられた緋色のスリップドレス。白菊丸と桜姫はどちらが優位でもなかった。

 ひとつの体に、17才の少年白菊丸と17才の少女桜姫が共存する。
 白菊丸を感じる怒り、桜姫を感じる悲しみ。
 ユスティニアン・トゥルクの繊細な演技でした。
 scarletはふしだらの色でもあるが、怒りに顔を赤らめる様でもある。
 理性もなく制御もできない激情そのものの「姫君」、タイトルに相応しいと思うのです。


3:清玄と権助、収奪した者は望みを無くす

 清玄は、恋人白菊丸の生まれ変わりである桜姫にいくら尽くしてもその心も体も得られないまま死ぬ。
 権助は、「都鳥の印章」も桜姫も金に換えられず、彼女との子供も失って死ぬ。
 しかし清玄は白菊丸との死の約束を裏切ったのであり、勿論権助は「都鳥の印章」も桜姫も偶々手に入れたものを横取りしているのであり、二人ともそれぞれ桜姫も「都鳥」も手に入れる正当性が無いのである。
 つまり、自分の犯した収奪の報いを受けて死んだとも言う。

 断崖の高さに怖じて約束を破り、恋人の死後も結局複数の稚児と関係を持ったと思えば「徳の高い高僧とは何だろう」と思うし、弱った体にむち打つように赤子を助けても結局桜姫を代償に望むからかと思えば感動や哀れみというより妄執の疎ましさを感じる。
 けれども、その流されやすい弱さと弱さを盾にした図々しさは人としてごく普通の悪さである訳で。
 白菊と書かれた香箱に、残された赤子に、長浦が拝領した赤いドレスに、失われた恋人を見て泣く喪失の深さ、舞台で直接見ると心を打たれます。

 舞台の中、清玄はセイゲンでキヨハルでオフェリアだと呟く一節があった。
 以前、オンライン配信で見たバージョンではなかったような気がする。
 清玄にかつて侍だった「きよはる」僧侶「せいげん」の二つの読み方があり、それを演じる「オフェリア・ポピ」の外見をしている。
 人の多面性、そして愚かで優しく身勝手で献身的な清玄は彼女であり私たちである普通の人で、誰にも起こり得る過ちと悲運を示すのだと思う。

 一方権助は奪った「都鳥の印章」を巻き上げ抜け目なく要求額をつり上げていくように見えて、印章を売りつけられる唯一の相手である悪五郎を殺してしまって全てを台無しにしている。
 桜姫を売り飛ばせば清玄の亡霊に邪魔されて失敗し、お十を代わりに出すことに成功しても結局その後桜姫に撃たれて命を落とす。
 普通の悪党から墓掘り人足まで身を落としたのも、元気よく強がっていても失敗を重ねた為だろう。
「都鳥の印章」と「桜姫」を両方使って身分を戻す賭けに思い至るまで何故これほど掛かるのか、そしてちっとも望みのなさそうな酔いざまはなんなのか。
 どうも転機は、墓掘り人足として呼ばれて見た兄の遺体だったように思えます。
「兄上、なんてこと」
 ただひとことの台詞だけれど、常に乱暴で伝法で快活な彼らしからぬ「兄上」。
 これだけで残月と長浦を追い出して家を乗っ取る様子に、言いがかりだけではない何かが乗るのは不思議でした。
 そこはやっぱり演技の力だったと思います。
 かつてその非行で家を追われ、出家で縁を切ったきり庇護してくれなかった兄への思いの中に「兄上」と改まった呼び方をする何かが残っている。
 なら権助が愛してはいない桜姫の「夫」という立場を離さない理由に「兄から巻き上げてやった」成果を誇る気持ちを読みとることはできないか。
 清玄から桜姫(≒白菊丸)、桜姫から権助へと一方向に巡った感情は清玄に向けて返ることになる。
 残月と長浦は清玄に毒を盛り、桜姫は清玄を讒言した。
 家を奪い取り女郎屋に売る、それは単なる収奪だけでなく彼の秘めた復讐となるでしょう。

 さて、桜姫は因果の元に権助の手元に返る。「都鳥の印章」を献上し吉田家の姫君「桜姫」を娶り武士に直る、という計画は「信夫の惣太」が「都鳥の印章」の強奪犯だと知られている困難はあるものの、成ればスラムの底から成り上がれる。
 しかし野心にしては、ひどく酔って自暴自棄のように告げる様子は絶望の色を帯びる。
 喜びのないその野心は、本当に権太の望みであったのか。
 死にたかったのではないか。
 兄は死して尚桜姫につきまとい、しかし自分が桜姫に絡んでも現れない。
 権助の、上手くやったつもりで何一つ上手くない不遇に、兄の死と自分の前にだけは現れぬ兄の亡霊は止めを刺したのではあるまいか。

 桜姫で白菊丸である女に撃ち抜かれ、運命はそこで終わる。

 このただ荒っぽいようで傷ついた内面もある権助と、悔いの祈りで立派な僧になり既に老い弱々しいようでいてしつこくその底に暴力性の覗く清玄。
 オフェリア・ポピの演技、直接言葉がわからなくても伝わる妙技でした。


4:赤子が死ぬ、世界は閉じてまた生まれる。

 桜姫と権助との間に生まれ、名もないまま死ぬ赤子。
 権助を殺す決意をした桜姫が、赤子を桶の水へ沈める背景にはこれまで舞台から消えていった全ての人が倒れ伏し、低い声で一斉に「人殺し……」とうめく。
 他の誰が死ぬときでもそういう演出はされなかったのですから、この赤ん坊の殺害はとりわけの意味があるということになります。

 生まれ変わって夫婦になる、という誓いが歪に捻れたことの象徴がこの赤子だとするならば、誓いが果たされた証明である子供は殺されなければならなかった。
 奇跡が歪に起こった世界を終わらせ、正しい世界を始めなければならない。
 そして世界が終わるということは、全員が死ぬということだ。

 子供を殺し、権助を殺し、「都鳥の印章」を運命を司るように立つ「侍」に献上した後桜姫も倒れ伏す。
 そして語り部の口上を経て、全ての人物が回り舞台を生き生きと踊るフィナーレに至る。
 回り舞台は舞台の死角部分から登場してくる別の背景ですから、これは桜姫が赤子と共に終わらせたのとは別の世界なのだと考えます。
 それが死後の世界なのか、別の次元の世界なのかは受け取り方が違ってくるでしょう。
 私は別の、清玄と白菊丸が結婚の宿願を果たす(或いは全く別の人生を生きる)殺された赤子のいない世界なのではないかと思っています。
「桜姫東文章」の「全ては元に戻ることを言祝ぎとする」という当時の歌舞伎特有の作法を、こう作ると演劇として無理のない解釈にできるんだなと思いました。

 勿論、人物像の作り方も含めてこの解釈だけが正解なのではないと思います。
 シェイクスピア作品が上演される度に、カンパニーごと公演ごとに異なる解釈や切り口を見せその違いこそが上演の価値とされるように、歌舞伎の脚本もそうできるドラマ性があると示した作品ではないでしょうか。
 海外公演も熱心にやっていた十八代目中村勘三郎が、平成中村座をシビウ国際演劇祭に掛けたときのご縁がこの作品のそもそもの切っ掛けとアフタートークで聞きました。
 異文化とは言え伝統を持ち敬意を払わなければならない神秘の儀式ではなく、演劇として歌舞伎の持つドラマ性を見て欲しいという願いの、ひとつの結実。
 本作の発端が東京五輪の文化セクションとして、海外の演出家5人にそれぞれ歌舞伎を演劇にしてもらうという幻のプロジェクトにあったと聞けば、残りの4本は一体誰でどの作品だったのか気にもなるのですが。
(こういう企画を潰すからあのていたらくなのか、あのていたらくの主催に首を突っ込まれないで済んだのが幸いなのかはわからないですね……)
 日本人にもしばしば「美しいけど難解」とされる「桜姫東文章」を選び、企画がなくなった後も作品を完成に導いてくれたプルカレーテの勇気と情熱に改めて頭が下がります。
 歌舞伎を神秘の儀式にして理解を遠ざけているのは、日本人も同じかもしれませんものね。

「侍」を除いて全ての男性は女性が演じ、女性は男性が演じるこの演劇では、体格差の逆転によって男性の繊細さと女性の強さが引き立ち、また悪事の質がそもそもの性別と結びつかないようにできていたと思います。
 しかしその中でも、男性と遜色なく見える長身の入間悪五郎と源吾のアクションはしなやかで美しかった。ことに悪五郎役のディアナ・フフェザンの華やかさはとてもチャーミングでした。

 一度の中止を経て日本に来てくれてありがとう「スカーレット・プリンセス」。とてもうれしかったです。

「守銭奴 ザ・マネー・クレイジー」:喜劇とは何か。2022/11/29

1:「喜劇」とは。

 「守銭奴」は17世紀フランスでモリエールの書いた喜劇である。
 確かにアルパゴンの常軌を逸した吝嗇は滑稽と言える。
 言えるがしかし、怖い。
 ビニール素材の中で柔らかく拡散する寒色のライトは、アルパゴン邸が氷の館であることをイメージさせる。
 ストーブの赤、フロアスタンドの暖色の光はすぐ消され、主であるアルパゴンは無駄が行われていないか、自分の金が盗まれていないか、頻繁に邸内を巡回する。
 邸内に響きわたる警報めいた呼び出しベル、続いての足音に家族も使用人もおびえを見せる。
 ある一家の様子ではあるけれど、これは圧政の姿である。
 そして館の外は外で冷たく雨が降り、外に逃げれば解放される訳ではないことが示される。
 物語の後半、アルパゴンが庭に埋めた金が消えた後が更に怖い。
 館の庭、とされる荒涼たる光景。捨てられた古家具と枯れ木が点在する中、真ん中に金を隠していた人一人入る程度の穴が開いている。
 何故「人一人」の大きさだと断言できるかと言うと、かなり暗くされた舞台の中、その穴から出てきた影が人の大きさになり、アルパゴンであることがわかるというのが、このシーンの始まりだからである。
 ほぼ幽鬼である、その後ろ姿は正直ホラーである。
 ものすごく怖い。

 喜劇 とは。

 少なくとも所謂コントと同様の意味とは受け取れない。
 滑稽ではあるかもしれないが、その笑いに幸せの暖かみはない。
 つまり、喜劇の要素は「楽しい」ではないことがわかる。
 ならば、喜劇が悲劇とも他の演劇とも違うジャンルを形成している基礎は何であるか。
 本作の笑いの基礎は、現実にはありえない程に誇張された吝嗇、という歪みである。
 現実にありえないことと、現実とのギャップで人は笑う。
 一方で、現実にはありえないながら、観客はこのありえない吝嗇ぶりの想像ができる。
 概ねの人は、程度の差こそあれ皆吝嗇であり、他人の吝嗇に悪態をついたこともあるからです。
 現実にはあり得ないことが起き、しかしそのあり得ないことが想像はでき、それでこそ現実とのギャップで人は笑うのではなかろうか。
 あり得ないことを現実の延長線上に構築するためのロジック。
 そして誇張された姿が滑稽に写るよう作るためのアイロニー。
 現実にあり得ないことが起きる仮定の世界を、皮肉に笑う。それができるのは誇張された自分の欲を投影できるから。
 しかし皮肉で笑わせる、というのはポイントを外すと寒い。
 皮肉は愚かさを笑うという意地の悪い笑いであるからである。 
「冷笑系」という皮肉を皮肉る表現が現れて久しい。
 少し視点をずらすが故に論点から正面に取り組むことを回避する、その自分を棚に上げた無責任な「上から目線」は嘲笑の対象であるということです。
 的を外せば皮肉は簡単に「冷笑系」に堕す。
 あくまで自分の底にある愚かさを共に笑うように導かなければ後味が悪い。
 高ぶった感情で不都合から目を逸らせることなく、観客に冷静に欲望の醜さを共有させなければならない。
 おそらく公演する時代と土地に合わせて皮肉をチューニングするのが演出の腕前ともなるでしょう。
 その繊細で難しいアイロニーの演出と支えるロジックの構築を、本作に見たように思います。


2:プルカレーテの喜劇

 思えば2020年の野田版「真夏の夜の夢」も喜劇ではあったのですけれど。
 恋の移ろいやすさと、想いだけではない富や社会的立場を手に入れる打算、それに振り回されるさまを笑う「真夏の夜の夢」。
 しかし野田秀樹がシェイクスピアへ大幅に手を入れたテキストで示されたのは、恋や打算を争う以前に世界からはじき出された者の復讐であり、その復讐から世界を取り返す戦いの物語だったように思います。
 シェイクスピアの世界そのものを皮肉の対象とする、換骨奪胎の手法そのものが喜劇的ではあるけれど、物語としては脱喜劇であったと考えることもできる。
 日本で見られるここ五年の作品4本しか見ていない私にとって、今回が初めて見るプルカレーテの喜劇となります。

 今回の「守銭奴」について、おそらく一番大きな変更はラストシーンだと思います。
 岩波文庫「守銭奴」(鈴木力衛訳)を紐解くと、物語は二組のカップルの結婚式の費用をアルパゴンの晴れ着までアンセルムが負担することを約束した後、ジャック親方の為に警部の要求する捜査費用も負担して、全て丸くおさまったところでアルパゴンが金の入った「わしのかわいい箱」に執着を見せ一座から離れていくところで終わる。
 人々が離別家族の再会と結婚の支度に沸き立つ中、一人金しか見ていない「守銭奴」アルパゴンの滑稽を笑って幕となる。

 プルカレーテ版において、ジャック親方はすげなくアルパゴンに見捨てられたまま、誰にも省みられることなく警部に引きずっていかれる。
 アルパゴンは、戻ってきた箱を抱えたまま何にも関心を示さなくなり、遠巻きに人々が離れ舞台を去った後、箱を抱いて再び金を埋めていた穴に入っていく。
 その姿は、やはりアルパゴンの死を想定するのが妥当でしょう。
 では、何故アルパゴンとジャック親方は死を暗示しながら舞台から去らなくてはならないのか。
 圧政を強いる狂気の支配者がアルパゴンであり、その傍らにある忠実な道化がジャック親方だったからだろうと思うのです。

 本公演の演出において、金とは支配力の源泉でした。
 ため込んでいる金をいつかは、理由によっては、使うだろうという期待が家族や使用人たちをアルパゴンに引き止めている。
 一万エキュの盗難がアルパゴンを一層の狂奔に駆り立てるのは、金を失うことが支配権の喪失に他ならないからです。
 クレアントはラ・フレーシュを通じて父から奪った一万エキュの箱を抱えて初めて父アルパゴンと交渉する力を持つ。
 交渉条件を飲み金を取り返しても、一度膝を屈したアルパゴンに支配力は戻ってこない。
 既に場にはアンセルムがいる。
 更なる金持ちでしかも気前よく金を使うアンセルムの出現に、人々は一斉にアンセルムの側へ走っていく。
 そのアンセルムに対し、アルパゴンは結婚式の費用や自分の晴れ着と言った支出の要求をするのが精一杯で、それも受け入れられてしまえばもう抵抗のしようもない。
 金を使わないことで圧政を強いてきたアルパゴンは、金を使わないことで支配権を失うのです。
 行動は同じまま立場の反転するアイロニー。
 そして支配する相手も失った中、使うこともなければ何の効果ももたらさない金を抱えて消える。
 その姿は狂った王の哀れな末路と写りました。

 一方アンセルムも何でもかんでも金を出すのではなく、ジャック親方はそのまま警部に引きずっていかれる。
 勿論ジャック親方に罪はある。ヴァレールを陥れ危うく死刑にする所だった、しかし1万エキュの盗難については無実である。
 それなのに連れていかれるのは、誰もジャック親方を気にしていないからです。
 ジャック親方はアルパゴンに酷使される姿を滑稽に描かれる道化であり、誰からも見捨てられる弱者である。
 ジャック親方の焼いた子豚の丸焼きを手元に残し、引きずられていく彼をただ見捨てる。アンセルムだけでなく他の一同も決してただ善き人ではあり得ない。
 子供たちも、使用人も、皆それなりに弱くずるいです。
 警部に払う調書代、それが払えないし誰からも払われない為にジャック親方は(おそらく)死ぬ。
 酷使に耐える忠実もいろいろ器用にこなす技術も買われないアイロニー。
 それにアンセルムはアルパゴンから提案されたエリーズとの婚約を一時は履行するつもりでアルパゴン家を訪れている。
 なのにアンセルムがアルパゴン邸に持ち込んだ大きな袋の中身は大団円のサプライズとして現れる、マリアーヌの母で自分の妻です。
 考えれば考えるほど、何故そうしたかと。
 かつて動乱でナポリを追われたドン・トーマ・ダルブルチは善き支配者であるだろうか。
 経緯の差こそあれ、息子と娘の養育に金を払わず、息子の恋人である娘のような年頃の女と結婚しようとした点では、アルパゴンとアンセルムに大きな違いはない。
 アンセルムの善き支配は、所詮金の払いの気前良さからくる現段階の期待の内でしかないのです。

 金を使わないことで発生した支配権を、金を使わないことで失う。
 支配力の目減りを気にして使えない金を、金以外の全てを失った後も後生大事に抱えて消える支配者の末路。
 金を使う、ただその一事でそれまでの全ての経緯を忘れて歓迎される新たな支配者。
 動かさなくとも状況でその価値が大きく変動する金というアイロニー。
 その価値の変動を支配権の移る様で示すロジック。

 金という購買力の魅力。
 だから人は金を求めて支配される。
 従順な被支配者からひたすら搾取したい欲望と、寛大な支配者からひたすら与えられたい欲望とは表裏一体である。
 そして命まで購買力に左右される恐怖。
 強い者が助けない弱者を人の多くは省みない。
 命をさえ守るその力を人は求め、手に入れば執着し、目減りを恐れて使えなくなる。
 しかし使わなくなると金は金でありながら購買力をなくし、支配力もなくすのだ。
 元から金のないジャック親方同様に、アルパゴンは省みられることなく打ち捨てられ、購買力をなくした一万エキュを抱えて穴の中へ消えていく。
 笑いで終わらないからこそ金が持つ支配権の側面が浮き上がる。
 狂王の圧政最後の一日。
 その見立ては繊細で悲しみを含んだアイロニーであり、そのアイロニーは明確なロジックで支えられた動きの中にある。端正な喜劇のありようだと思いました。


3:再び喜劇とは。

 あり得ないことを現実の延長線上に構築するためのロジック。
 そして誇張された姿が滑稽に写るよう作るためのアイロニー。
 現実にはあり得ないことが起き、しかしそのあり得ないことが想像はでき、そのギャップを笑う。
 共感というには冷たく、自分の身を振り返ればうすら寒い。
 喜劇は楽しいものなのか。
 そう言われたら、時と場合によるんじゃないですかね……という歯切れの悪い答えになりそうな気はする。
 笑いどころがかみ合わない喜劇は、おそらく一切笑えない。
 幸せや嘆きを分かち合う種の物語より、笑いを引き出すのはずっと難しいのではなかろうか。
 そして人の無意識の下に持つ醜さを笑うのは醜いことであるか。
 勿論そんなことはない。
 醜いものが存在しないという仮定で蓋をする物語の方が高尚かと言えば、却って子供だましと言うだろう。
 世間の、人の、自分の、醜さをよく知った大人が改めてそれを醜いと確認して笑うことは、むしろ必要なことなのではあるまいか。
 あまり日本では馴染みの薄い作品性かもしれません。
 しかしそれが海外の古典作品に触れる意味ではないかと思います。

 シャープなロジックと繊細なアイロニーで構築された「守銭奴」に、そんなことを考えました。
 素晴らしかったと思います。