「MIU404」:「バットリ」を考える2026/03/28

1:動かないものが動くとは。

「MIU404」は2020年夏に放送されたテレビドラマである。
 放送からそろそろ6年目、配信も再放送も度々なので、今更ネタバレも何もなかろうとは思うのですが、最終回に仕込まれた大きなケレンであり、同時に一種「MIU404」の象徴になっているものがあります。
 通称「バッドトリップ」略して「バットリ」。
 喧嘩別れの末に志摩の死亡と伊吹の殺人という、物語がバッドエンドに終わるような展開が繰り広げられるが、実際には監禁され嗅がされた違法薬物のもたらした「バッドトリップ」であったというどんでん返しである。
 そのバッドトリップを覆すように無事生還し、復縁し、ラスボスの逮捕とその後も続く日々の中で物語は閉じられる。
 ストーリー分岐で違う結末を迎える展開は、ゲームやマンガ、アニメやライトノベルなど二次元の作品では珍しいものではない訳です。
 しかしそれがドラマ、特に原作付きでもそういう前提が宣言されている訳でもない作品で「バッドエンドとトゥルーエンド」をやってのけるのは中々の不意打ちでした。
 それまで動くことのないと思っていた世界の転換、再構築。
 仕掛けとしてはこの上なく大きく奇抜で、それだけに外したら致命打になってしまいます。

 これを外すことなく決める為の準備はどう仕込まれているのか。
 そもそもこの盛大なケレンを何故ドラマに必要としたのか。
 考えたいと思います。


2:あのときスイッチに会わなければお前はきっと俺だった

「バットリ」の大ケレンはそもそも「悪夢」という建前でリアリティラインを崩さないまま「アナザーエンド」を形にしたものです。
 この「別の分岐の結果があり得た」姿に「悪夢を見た」という現実起こり得る事象をあてがった為に、SF的な平行世界を渡ったような効果が出ています。
 二次創作でも「バッドエンドから戻れなかった世界」「トゥルーエンドは夢から覚めた夢で再び別のバッドエンドに向かう世界」は人気のモチーフです。
 取り返しのつかない様のリアリティが「バットリ」を小手先のギミックに終わらせず、「目を覚ます」後の世界を美しく輝かせる。
 ここで考えるのはふたつ。
 ・SFではない「MIU404」がSF的「バットリ」を視聴者に納得させる叙述の方法
 ・SFではない「MIU404」が「平行世界を渡ったような効果」を必要とした意味

 まず「バットリ」を納得させる叙述方法について。

 叙述方法その1:「スイッチ」という意識づけ

 勿論前述の通り悪夢・幻覚という現実的な事象を名目としているので、唐突にSFの用語が発生した訳ではありません。
 とは言え「夢オチ」という様式でありがちな説明の放棄に伴う「残念な感じ」が無い、望みが叶ったかのようなポジティブな印象に繋がる所がポイントです。
 私は「あったかもしれない別の今」へ思いを馳せるようなモチーフが繰り返し使われたことが、「かもしれない予測と違うことがあった今」を受け入れる下地だったと考えています。
 そう3話から語られる「スイッチ」です。
 必ずしも本人がそれと自覚している訳でもない、選べたとは限らない主に他人との出会い、それによって人の人生が流される「スイッチ」。

 もしもあの改札前で立ち止まらず歩いていれば 君はどこにもいやしなくて 僕もここにいなかった。

 唐突に米津玄師「Plazma」を引用するのも何ですが、何気ない瞬間を分岐と見て「もしあの時」を思わせるのは「あったかもしれない別の今」を受け入れさせる為の基本構造だと考えます。
 選択肢がわかりやすく提示されるフラグではなく、ピタゴラ装置を転がっている最中の玉からは見えていないルートの分岐が「スイッチ」。
 このスイッチの入れ方で玉の転がる先は変わる。
「誰かが最悪の事態になる前に止められるんだよ?超いい仕事じゃーん」
 1話で伊吹が語り、志摩が感動してしまう言葉は「MIU404」の作中全体をぶち抜く希望が、この「あったかもしれない別の今」をいい意味で獲得していく努力に尽きることを示すでしょう。

「最悪の事態」という想定を変えていく為の「スイッチ」になるべく四機捜は走っていく。
「間に合う」「間に合わせる」「間に合った」
 この駆けつけるべき「時点」を意識させるフレーズは「スイッチ」の存在と違う結末を同時に見る側の意識に擦り込んでいきます。
 例えば2話の「無実でいてほしかったな〜」という慨嘆は、既にして起きていた衝動的な殺人事件だけでなく、そのもっともっと昔の親子の断絶から「スイッチ」であったように見せる。
 3話は駆けつけるべき「時点」を欺く虚偽通報と、確保する手からこぼれていく成川の背に「スイッチ」の行く先を重ねる。
 7話の「10年あったら何ができる?」の夢想。
 8話は伊吹が「いつならガマさんを止められた?」と叫ぶ。
 繰り返される「もしもあの時」のモチーフ。
 また、6話の「香坂の背を見る、言葉を掛ける志摩の映像」は「そうしてやりたかった志摩の後悔」で実在しない光景でした。
 11話の「バットリ」前に既に「もしもあの時」が形として提示されることの予行演習が済んでいたとも言えると思います。

 叙述方法その2:いたかもしれない俺はお前

 予行演習の形としてはもうひとつ。
「あったかもしれない別の今」として主人公の2人が四機捜の刑事という今と違った「今」に至っていたらと思わせる人物はいるのでないか。
 直接平行世界仮説な2人を出す訳にはいきません。
「MIU404」はSFじゃないからです。
 同じ人物は2人現れない。「時は戻らない、取り返しのつかないことはなかったことにならない」も繰り返されています。
 しかし8話では「ガマさんがいなきゃ、俺はチンピラになって組員にでもなって、志摩に逮捕されてたな」と伊吹が言う。
 刑事ではなく犯罪者となっていた「スイッチ」の違う誰か。
 4話の青池透子は伊吹のスイッチ違いなのではないでしょうか。
 バカな女と侮られがちな、実は少しずつ暴力団から横領ができる度胸のある女。逃亡時にかさばる現金から宝石にしてあみぐるみに隠す計画の練れる賢い女。
 そして死を目前にその宝飾品を「恵まれない少女への支援団体」に託すことに幸せと希望を見出せる女。
 逃亡という彼女の動きは「足が速い」をアイデンティティに据えられた伊吹と重ねやすい。
 実らない寄付をしたことのある苦い思い出が伊吹にあるはめ込み方。
 刹那的で華やかに散る青池の姿は、主役級の夢の姿とも思うのです。

 じゃあ志摩が犯罪者となっていたら、というスイッチ違いはあるのか。
 伊吹と青池の組み合わせと対比させるなら、動機も手段も現実と離れることなく、かつ頭脳派であることを見せていく犯罪になるでしょう。
 5話の水森祥二朗。
 事業の失敗と残った借金、監理団体の不法行為に消耗した疲労、先行きを見失うように計画する強盗の煽動。
 結果としては監理団体の摘発に繋がって実はそれなりためになっているけど印象は懐いていた女の子への裏切りが先に立つ。
 志摩の「相棒殺し」は教導のミスとして志摩に刻まれている。
 何もかも現実的で、人らしく弱くずるい水森の話は、地味に嫌な後味で記憶に残ります。

 伊吹を置いて自分だけ濃いグレーゾーンに足を突っ込む裏切りをした志摩と、特にプランがある訳でもないのにマリナーへ突っ込むギャンブルに走った伊吹と、11話の展開とも整合するようにも思うのです。

 一方、犯罪者ではなくより失敗の少ない側になっていたらというスイッチ違いはないのか、という想像もしてみましょう。
 伊吹の名前は虚数=𝑖。志摩の名前は1未満。実数プラスになっていたら。
 桔梗ゆづると陣馬耕平という、2人の上司ではないかと。
 桔梗さんは「やるべき」と掲げたことに対する意志の強さで、陣馬さんは現実と折り合いをつけていく柔軟さと顔の広さで、それぞれ理想的と見える面のある人です。
 伊吹が「だったらよかったのにな」という希望に具体的な行程を探し協力を取り付けることができる社会性があったら。
 志摩の失敗に凹むと深く長い、その反省深さから一旦手を放す根気があれば。
 伊吹は案外桔梗さんに似て、志摩は陣馬さんに似るんじゃないですかね……というか、そうなりたいと思う部分があるんじゃないですか……。
 何で志摩が「陣馬さんの」顔と信頼の広さを伊吹に誇り、陣馬さんが死にかけた時に自分も死んだようにどん底へ沈むかと考えたら、あれはやっぱり憧れなんでしょう。伊吹は伊吹で「俺、隊長のこと好きかも」て感嘆する訳で。

 ともあれ「もしもあの時」と「スイッチ違い」を繰り返し、「時は戻らないし、起きたことは無かったことには変わらない」現実とぶつけ続けることで、それがひっくり返ることを望むように視聴者の下地は整えられていく。
 その結果「バットリ」は夢オチの残念さより、望まれた希望の実現として受け取られた。
 これが「バットリ」を視聴者に納得させる叙述の仕組み。
 じゃあ何故その希望の実現に「平行世界を渡ったような効果」を必要としたんでしょう。
 次は「バットリ」の目的を考えます。


3:だって、どこかへ行きたかったから

「MIU404」が現実世界の法則を崩さないようにしながらも「バットリ」という大きなケレンで平行世界仮説を扱うSF的な効果を得た。
 その効果を目指した理由を考えたとき、やはり「2020年夏」という放送時期と無縁だとは思えないのです。

 新型コロナウイルスCovid-19のパンデミックは、2019年12月に始まる。
 緊急事態宣言が重なり、制作そのものにも中断の時期が挟まれています。
 今だって終わってはいない。指定感染症のラベルを変えて公的補助を切り下げただけです。
 とは言え、全く未知のウイルスで、致死性もあり、一般的な感染症対策の最高ランクを施しても収まらないし先も見えない、という20年夏の恐怖は特殊だった。
 感染した、と言えば苛烈な私的制裁の対象でした。
 一方で不自由に対する不満や生活の不安は医療関係者に矛先が向き、ワクチンと医療に対する攻撃は今でも筋違いの復讐めいた「陰謀論」の重要な核のひとつです。
 症状は強く感染すれば一人で済まず社会的に終わる恐怖。
 救いの見えない籠城戦に追い込まれたような日々の中、みんなどこかに行きたかったし、誰かに来てほしかった。

 現実は既にバッドエンドだった。
 だからこそトゥルーエンドに「変わる」希望を提示する必要があったのだと思います。
 フィクションの中の世界は一度壊れ、今あの世界は現実と地続きになったという感覚。
 誰かの最悪の事態に間に合わせる、助ける為に伊吹と志摩が走っている、その誰かとはあなただと語りかける、その為の仕掛けが「バットリ」だった。
 放送後後2年にわたる「メロンパン号キャラバン」はその効果を更に増した。その後「ラストマイル」のプロモーションに至るまで、更に2年のイレギュラーなお披露目が続く。
 ばかばかしい錯覚というなかれ、この時ドラマの世界は「現実」だったのである。

「虚実皮膜」という言葉がある。
 近松門左衛門の芸術論として伝わる。芸というのは虚構と現実との膜のように薄い微妙な境にあり、「虚にして虚にあらず実にして実にあらずこの間に慰が有たもの也」と続く。
 虚構と現実の境を曖昧にした効果の最上級は「慰め」なのである。
「MIU404」の内には確かにそれがあった。

「MIU404」は世界線を同じくする「アンナチュラル」「ラストマイル」に比べてもストーリーの構造が格段に強い作品です。
 放送時のみの消費を前提としたドラマの、いわば掛け流しの軽さ薄さより、何度も繰り返して愛玩することを前提とした漫画や小説に近い重さと堅牢さがあります。
 これは皮肉にも制作中断が制作期間を延ばし、そもそも企画そのものを練り直すレベルの危機感があった、時代の効果だろうな…と改めて思うのです。
 よく諦めずに放り出さずに続けて下さった、この一作に賭けて下さった。

 20年、「MIU404」に助けられた人は多かったろうと思う。
 ありがたかったな、と今でも恩に思ってます。

「MIU404」:「バットリ」を考える2026/03/28

1:動かないものが動くとは。

「MIU404」は2020年夏に放送されたテレビドラマである。
 放送からそろそろ6年目、配信も再放送も度々なので、今更ネタバレも何もなかろうとは思うのですが、最終回に仕込まれた大きなケレンであり、同時に一種「MIU404」の象徴になっているものがあります。
 通称「バッドトリップ」略して「バットリ」。
 喧嘩別れの末に志摩の死亡と伊吹の殺人という、物語がバッドエンドに終わるような展開が繰り広げられるが、実際には監禁され嗅がされた違法薬物のもたらした「バッドトリップ」であったというどんでん返しである。
 そのバッドトリップを覆すように無事生還し、復縁し、ラスボスの逮捕とその後も続く日々の中で物語は閉じられる。
 ストーリー分岐で違う結末を迎える展開は、ゲームやマンガ、アニメやライトノベルなど二次元の作品では珍しいものではない訳です。
 しかしそれがドラマ、特に原作付きでもそういう前提が宣言されている訳でもない作品で「バッドエンドとトゥルーエンド」をやってのけるのは中々の不意打ちでした。
 それまで動くことのないと思っていた世界の転換、再構築。
 仕掛けとしてはこの上なく大きく奇抜で、それだけに外したら致命打になってしまいます。

 これを外すことなく決める為の準備はどう仕込まれているのか。
 そもそもこの盛大なケレンを何故ドラマに必要としたのか。
 考えたいと思います。


2:あのときスイッチに会わなければお前はきっと俺だった

「バットリ」の大ケレンはそもそも「悪夢」という建前でリアリティラインを崩さないまま「アナザーエンド」を形にしたものです。
 この「別の分岐の結果があり得た」姿に「悪夢を見た」という現実起こり得る事象をあてがった為に、SF的な平行世界を渡ったような効果が出ています。
 二次創作でも「バッドエンドから戻れなかった世界」「トゥルーエンドは夢から覚めた夢で再び別のバッドエンドに向かう世界」は人気のモチーフです。
 取り返しのつかない様のリアリティが「バットリ」を小手先のギミックに終わらせず、「目を覚ます」後の世界を美しく輝かせる。
 ここで考えるのはふたつ。
 ・SFではない「MIU404」がSF的「バットリ」を視聴者に納得させる叙述の方法
 ・SFではない「MIU404」が「平行世界を渡ったような効果」を必要とした意味

 まず「バットリ」を納得させる叙述方法について。

 叙述方法その1:「スイッチ」という意識づけ

 勿論前述の通り悪夢・幻覚という現実的な事象を名目としているので、唐突にSFの用語が発生した訳ではありません。
 とは言え「夢オチ」という様式でありがちな説明の放棄に伴う「残念な感じ」が無い、望みが叶ったかのようなポジティブな印象に繋がる所がポイントです。
 私は「あったかもしれない別の今」へ思いを馳せるようなモチーフが繰り返し使われたことが、「かもしれない予測と違うことがあった今」を受け入れる下地だったと考えています。
 そう3話から語られる「スイッチ」です。
 必ずしも本人がそれと自覚している訳でもない、選べたとは限らない主に他人との出会い、それによって人の人生が流される「スイッチ」。

 もしもあの改札前で立ち止まらず歩いていれば 君はどこにもいやしなくて 僕もここにいなかった。

 唐突に米津玄師「Plazma」を引用するのも何ですが、何気ない瞬間を分岐と見て「もしあの時」を思わせるのは「あったかもしれない別の今」を受け入れさせる為の基本構造だと考えます。
 選択肢がわかりやすく提示されるフラグではなく、ピタゴラ装置を転がっている最中の玉からは見えていないルートの分岐が「スイッチ」。
 このスイッチの入れ方で玉の転がる先は変わる。
「誰かが最悪の事態になる前に止められるんだよ?超いい仕事じゃーん」
 1話で伊吹が語り、志摩が感動してしまう言葉は「MIU404」の作中全体をぶち抜く希望が、この「あったかもしれない別の今」をいい意味で獲得していく努力に尽きることを示すでしょう。

「最悪の事態」という想定を変えていく為の「スイッチ」になるべく四機捜は走っていく。
「間に合う」「間に合わせる」「間に合った」
 この駆けつけるべき「時点」を意識させるフレーズは「スイッチ」の存在と違う結末を同時に見る側の意識に擦り込んでいきます。
 例えば2話の「無実でいてほしかったな〜」という慨嘆は、既にして起きていた衝動的な殺人事件だけでなく、そのもっともっと昔の親子の断絶から「スイッチ」であったように見せる。
 3話は駆けつけるべき「時点」を欺く虚偽通報と、確保する手からこぼれていく成川の背に「スイッチ」の行く先を重ねる。
 7話の「10年あったら何ができる?」の夢想。
 8話は伊吹が「いつならガマさんを止められた?」と叫ぶ。
 繰り返される「もしもあの時」のモチーフ。
 また、6話の「香坂の背を見る、言葉を掛ける志摩の映像」は「そうしてやりたかった志摩の後悔」で実在しない光景でした。
 11話の「バットリ」前に既に「もしもあの時」が形として提示されることの予行演習が済んでいたとも言えると思います。

 叙述方法その2:いたかもしれない俺はお前

 予行演習の形としてはもうひとつ。
「あったかもしれない別の今」として主人公の2人が四機捜の刑事という今と違った「今」に至っていたらと思わせる人物はいるのでないか。
 直接平行世界仮説な2人を出す訳にはいきません。
「MIU404」はSFじゃないからです。
 同じ人物は2人現れない。「時は戻らない、取り返しのつかないことはなかったことにならない」も繰り返されています。
 しかし8話では「ガマさんがいなきゃ、俺はチンピラになって組員にでもなって、志摩に逮捕されてたな」と伊吹が言う。
 刑事ではなく犯罪者となっていた「スイッチ」の違う誰か。
 4話の青池透子は伊吹のスイッチ違いなのではないでしょうか。
 バカな女と侮られがちな、実は少しずつ暴力団から横領ができる度胸のある女。逃亡時にかさばる現金から宝石にしてあみぐるみに隠す計画の練れる賢い女。
 そして死を目前にその宝飾品を「恵まれない少女への支援団体」に託すことに幸せと希望を見出せる女。
 逃亡という彼女の動きは「足が速い」をアイデンティティに据えられた伊吹と重ねやすい。
 実らない寄付をしたことのある苦い思い出が伊吹にあるはめ込み方。
 刹那的で華やかに散る青池の姿は、主役級の夢の姿とも思うのです。

 じゃあ志摩が犯罪者となっていたら、というスイッチ違いはあるのか。
 伊吹と青池の組み合わせと対比させるなら、動機も手段も現実と離れることなく、かつ頭脳派であることを見せていく犯罪になるでしょう。
 5話の水森祥二朗。
 事業の失敗と残った借金、監理団体の不法行為に消耗した疲労、先行きを見失うように計画する強盗の煽動。
 結果としては監理団体の摘発に繋がって実はそれなりためになっているけど印象は懐いていた女の子への裏切りが先に立つ。
 志摩の「相棒殺し」は教導のミスとして志摩に刻まれている。
 何もかも現実的で、人らしく弱くずるい水森の話は、地味に嫌な後味で記憶に残ります。

 伊吹を置いて自分だけ濃いグレーゾーンに足を突っ込む裏切りをした志摩と、特にプランがある訳でもないのにマリナーへ突っ込むギャンブルに走った伊吹と、11話の展開とも整合するようにも思うのです。

 一方、犯罪者ではなくより失敗の少ない側になっていたらというスイッチ違いはないのか、という想像もしてみましょう。
 伊吹の名前は虚数=𝑖。志摩の名前は1未満。実数プラスになっていたら。
 桔梗ゆづると陣馬耕平という、2人の上司ではないかと。
 桔梗さんは「やるべき」と掲げたことに対する意志の強さで、陣馬さんは現実と折り合いをつけていく柔軟さと顔の広さで、それぞれ理想的と見える面のある人です。
 伊吹が「だったらよかったのにな」という希望に具体的な行程を探し協力を取り付けることができる社会性があったら。
 志摩の失敗に凹むと深く長い、その反省深さから一旦手を放す根気があれば。
 伊吹は案外桔梗さんに似て、志摩は陣馬さんに似るんじゃないですかね……というか、そうなりたいと思う部分があるんじゃないですか……。
 何で志摩が「陣馬さんの」顔と信頼の広さを伊吹に誇り、陣馬さんが死にかけた時に自分も死んだようにどん底へ沈むかと考えたら、あれはやっぱり憧れなんでしょう。伊吹は伊吹で「俺、隊長のこと好きかも」て感嘆する訳で。

 ともあれ「もしもあの時」と「スイッチ違い」を繰り返し、「時は戻らないし、起きたことは無かったことには変わらない」現実とぶつけ続けることで、それがひっくり返ることを望むように視聴者の下地は整えられていく。
 その結果「バットリ」は夢オチの残念さより、望まれた希望の実現として受け取られた。
 これが「バットリ」を視聴者に納得させる叙述の仕組み。
 じゃあ何故その希望の実現に「平行世界を渡ったような効果」を必要としたんでしょう。
 次は「バットリ」の目的を考えます。


3:だって、どこかへ行きたかったから

「MIU404」が現実世界の法則を崩さないようにしながらも「バットリ」という大きなケレンで平行世界仮説を扱うSF的な効果を得た。
 その効果を目指した理由を考えたとき、やはり「2020年夏」という放送時期と無縁だとは思えないのです。

 新型コロナウイルスCovid-19のパンデミックは、2019年12月に始まる。
 緊急事態宣言が重なり、制作そのものにも中断の時期が挟まれています。
 今だって終わってはいない。指定感染症のラベルを変えて公的補助を切り下げただけです。
 とは言え、全く未知のウイルスで、致死性もあり、一般的な感染症対策の最高ランクを施しても収まらないし先も見えない、という20年夏の恐怖は特殊だった。
 感染した、と言えば苛烈な私的制裁の対象でした。
 一方で不自由に対する不満や生活の不安は医療関係者に矛先が向き、ワクチンと医療に対する攻撃は今でも筋違いの復讐めいた「陰謀論」の重要な核のひとつです。
 症状は強く感染すれば一人で済まず社会的に終わる恐怖。
 救いの見えない籠城戦に追い込まれたような日々の中、みんなどこかに行きたかったし、誰かに来てほしかった。

 現実は既にバッドエンドだった。
 だからこそトゥルーエンドに「変わる」希望を提示する必要があったのだと思います。
 フィクションの中の世界は一度壊れ、今あの世界は現実と地続きになったという感覚。
 誰かの最悪の事態に間に合わせる、助ける為に伊吹と志摩が走っている、その誰かとはあなただと語りかける、その為の仕掛けが「バットリ」だった。
 放送後後2年にわたる「メロンパン号キャラバン」はその効果を更に増した。その後「ラストマイル」のプロモーションに至るまで、更に2年のイレギュラーなお披露目が続く。
 ばかばかしい錯覚というなかれ、この時ドラマの世界は「現実」だったのである。

「虚実皮膜」という言葉がある。
 近松門左衛門の芸術論として伝わる。芸というのは虚構と現実との膜のように薄い微妙な境にあり、「虚にして虚にあらず実にして実にあらずこの間に慰が有たもの也」と続く。
 虚構と現実の境を曖昧にした効果の最上級は「慰め」なのである。
「MIU404」の内には確かにそれがあった。

「MIU404」は世界線を同じくする「アンナチュラル」「ラストマイル」に比べてもストーリーの構造が格段に強い作品です。
 放送時のみの消費を前提としたドラマの、いわば掛け流しの軽さ薄さより、何度も繰り返して愛玩することを前提とした漫画や小説に近い重さと堅牢さがあります。
 これは皮肉にも制作中断が制作期間を延ばし、そもそも企画そのものを練り直すレベルの危機感があった、時代の効果だろうな…と改めて思うのです。
 よく諦めずに放り出さずに続けて下さった、この一作に賭けて下さった。

 20年、「MIU404」に助けられた人は多かったろうと思う。
 ありがたかったな、と今でも恩に思ってます。

「ラストマイル」:筧まりかの話をしよう2024/12/01

1:始める前に。

 筧まりかの話をします。
 という前提で「誰の話ですか」と思う人は一旦「ラストマイル」を見てきてからにしてください。
 物語の重要人物ですし、山崎佑と筧まりかの関係は最初は何の予備知識も持たずに見てほしい。
 申し訳ないですが、見た後で覚えていたらまた見に来てください。

 さて。
「ラストマイル」は約2時間(上映時間129分)の中に人数もたくさん、連続爆弾事件に関わる現場もたくさん、詰め込んでいるので登場人物一人当たりの持ち時間がそんなに多くありません。
 だとしても、その短い登場時間の中に、他の人物の関係の中に、どういう人だったかの設定はにじむ。
 筧まりかはどんな人だったのか。
 山崎佑は何故まりかとの結婚を前にベルトコンベアの上に飛び降り、まりかは何故爆弾事件を起こさなければならなかったのか。
「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」
 その言葉にある「責任」とは何を指すのか。
 彼女の行動と遺留品から、「筧まりか」を追いかけましょう。


2:筧まりかと佑の話をしよう。

 まず、基本的な情報の整理から。
 筧まりかはデイリーファスト社の西武蔵野ロジスティクスセンターで働くチームマネージャー、山崎佑の婚約者であった。
 そして結婚を控えて山崎佑がセンター3階から飛び降り、植物状態になったことを受けてデイリーファスト社に対し責任追及を求めるが、佑の父が責任追及を放棄したことにより頓挫。
 その後も諸方に手を尽くし、デイリーファスト米国本社への談判へ動く過程で舟渡エレナとも接触している。
「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」という言葉はこのときにエレナが聞いたものである。
 しかし結局いずれも「お気の毒ですができることはありません」以上の回答を得られないまま5年が過ぎる。
 時期は不明であるが、爆弾事件を起こすに際してはデイリーファスト米国本社へ予告のアクションがあった模様、しかしこれも黙殺される。
 爆弾の予告と前後は不明ながら、デイリーファスト社西武蔵野ロジスティクスセンターへ荷造りと出荷を行う「ブルータグ」のスタッフとして勤務、加えて物品出品者として登録。
「デイリーファウスト」の偽CM及び爆弾1ダースの発注、仕入れ、そして実行。
 自身は最初の事件の被害者を偽装し、性別不詳4つに破断した焼死体となって死ぬ。
 その少し前、山崎佑のマンションの防犯カメラに映る姿が生前最後の姿となる。
 享年およびデイリーファスト社以前の経歴は不明。

 以上が「ラストマイル」内における「筧まりか」の行動履歴です。
 ここから何がわかるか。
 5年にわたり、山崎佑を諦めなかったねばり強さ。
 そしてデイリーファスト社に接触する際舟渡エレナという糸口を見つけ、偽CMや爆弾の発注先、戸籍を売るホームレスも見つけている情報収集力。
 更に偽CMと爆弾の値段併せただけでも200万円超(これに最低でも「里中浩二」の戸籍の買い取り及びアパート入居一式が加わる)を支払えるだけの貯蓄。
 連続爆弾事件の手口を見つけ、計画を練り上げるだけの頭脳。
 やりきるだけの行動力と胆力。

 業種の特定までは難しい、けれどどこかの会社の「ホワイトタグ」級の職にあった人ではないか。
 親兄弟がいるのかはわからない、仮に居たとしても存在感は極めて希薄です。
 彼女の執着は山崎佑ただ一人にある。
 法的に家族になれなかった、おそらく見舞いにいくことさえできない他人の為に、彼女は5年も尽くした。
 その筧まりかの人となりを恋人だった山崎佑が理解していないとは思えない。
 自分の死後「家族」という絆に縛られてまりかが傷だらけの法廷闘争に陥ることは想像できたでしょう。
 佑が結婚前に飛び降りることを選んだのは、まりかを巻き込まないためだったのではないでしょうか。
 しかしもう一度まりかの性質に視点を戻せば、そもそも恋人が精神的に追いつめられて「ブラックフライデーが怖い」と呟く様を放っておいたとは思えない。巻き込まれることもむしろ望むところだろう。
 彼女はパワフルである。既に退職か最低でも休職を勧めるところまではしていたのではなかろうか。デイリーファスト社に対して取ることのできる法的措置を検討するくらいまでしていても私は驚かない。
 佑の退職や休職、そして病気療養の想定はまりかが結婚を躊躇う理由にはならなかっただろう。
 筧まりかには、おそらく佑ひとりを養うだけの稼ぎはあったろうから。

 ここで一旦山崎佑についても考えましょう。
 山崎佑の部屋に残された服は、捜索に入った伊吹の目にも高価とわかるものです。
 ここを手掛かりにできそうです。
 センター内の実務を取り仕切るチームマネージャーが薄給だとは思わないけれど、収入に比して少し高めの服を買っているのではないか。
 それは趣味だからかもしれないし、ストレスの代償に高い買い物を許容しているのかもしれない。
 それでも他人の目や思惑を割と気にするタイプだったのではないか。
 いわゆる「いい人」でいたいタイプ。
 それも高い服に見合うようになりたい向上心と野心を抱えてなお「いい人」と思われたい完璧主義。
 チームマネージャーの仕事について、梨本孔は「やることをやってれば責められることはない」と言う。
 しかし孔は前職の日本式ブラック企業のすり潰しに懲りて「いい人」を一切やめた男です。
 岡田将生なのでわかられにくいけれど「クセのある服」は彼の大事なキャラクターデザインの要素に上げられています。
 つまり2年も正気のままセンター内「ホワイトタグ」最古参として梨本孔が勤務できているのは、自分の防衛を第一に、傍目も他人の都合も気にしないからだという結論が出ます。この仕事に適応するにはそうでなければならない。
 じゃあ逆に「いい人」であることが捨てられない佑がこのチームマネージャーの仕事をやるとどうだったのか。
 チームの人間関係に配慮しようとすれば際限なく調整と追加の仕事が降り、制限時間と効率の数値に追い回されながら管理され、目標未達のミスに無能感を得て、短期間で精神が限界に至るのではなかろうか。

 仮定に仮定を重ねた妄想だと言っていい話なのですけれど。
 日本式の「いい人」。つまり他人を気にして配慮で身を削る優しい男が山崎佑であった場合、病んで仕事を手放し職場に「迷惑」をかけ、恋人であるまりかの世話になる道はもしかして救いには見えなかったかもしれない。
 アイデンティティの喪失になってしまう。
 これに更に佑の父を重ねて考える。
 最初はまりかを伴って法律事務所を訪れたのだから、関係は良好だったように思える。
 しかし事情は知らないが法的追及を諦めた山崎父が、諦めないまりかを罵る「あんたの所為だ」は、傷ついた父親から思う優しすぎる息子に対して慰めより共に戦うのに向いた「女らしさ」に欠く嫁への不満ではなかったか。
「あんたの所為だ」が刺さってしまったことが「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」という問いに繋がるなら、まりかにも薄く自分の所為だと責めることがあるからではないでしょうか。
 まりかが力強く手を差し伸べたからこそ佑を追い詰めた、と思われる余地がここにできてしまう。

 山崎佑は楽になりたかったし、恋人の重荷になりたくなかった。
 飛び降りたらラインが止まる。
 それだけで頭がいっぱいになった佑に「止めてどうする」の考えはなかったろう。
 計画性があったとは思えない、「止めない」ことに消耗した果てにやってはいけないことの全部をひっくり返して消えたい衝動によって3階から飛ばされたのだ。
 その結果、佑は死にきれず楽になれなかったし、法的に戦える地位を与えられなかったまりかは佑の為の戦いを諦めきれず、無理筋のゲリラ戦に突入して命を落とした。
 佑本人が言い残したように佑は「ばかなことをした」のである。

 話を筧まりかに戻しましょう。
 法的な配偶者でなかったから、まりかが佑の代理人になることはできない。だからこそ佑の父に、エレナに、必死で協力を訴える他なかった訳です。
 法的根拠のない立場での、法的な形に整えられていない後ろ盾もない道義的な要求というのは交渉力が非常に弱い。
 佑の父はデイリーファスト社への法的措置を諦めてまりかを捨て、エレナを通じての本社へのアプローチも「お気の毒ですができることがありません」の回答しか引き出せない。
 訴える資格のないあいまいな責任は、デイリーファスト社の逃げ道をふさげない。

「もし私の所為じゃなかったら、世界は責任をとってくれるんですか」
 まりかの言葉には、佑を奪われた怒りと佑との関係を否定され続けて一層深くなった悲しみがにじみます。
 この言葉を「私の所為だっていうんですか」と言い換えてしまうときっと間違う。
 佑を害したのは佑本人である。直接の責任は佑にある。
 しかし佑を追い込んだのは、と二次的な責任に踏み込んだとき、浮かび上がるのは個人の小さな荷物が集積された「世界」というべき流通量そのものです。
 カートに入れてぽち、そのクリック音が現実の荷物の数となる。
 そのひとつひとつ、患者の命が掛かる医薬品や子供が初めて買うママへのプレゼントにも含まれる「責任」は、発注の数に問うか金額に比例すべきでしょうか。
 ひとつひとつに「責任をとって」もらうことが非現実的とすぐわかる膨大な荷物の数、その膨大さに「山崎佑」という犠牲の輪郭が消えていく、無視されるのが確定するその絶望がこの言葉ではなかったか。

 そしてその膨大な荷物の数を「止めない」「全てはお客様のために」と責任をパスボールしながら見ないふりをして、上層部は上層部で現場とは別のベンチマークとノルマに追われ続ける。佑と変わらない限界な人たちで動いているデイリーファスト社の状況の理解もまりかに一層やり場のない思いをさせただろう。
 彼女のデイリーファスト社に求める責任とは、損害賠償や具体的な待遇改善措置というより、ただ社員が手すりを乗り越えて飛び降りる程精神をすり減らした事実を認めて忘れないという道義的な責任であったように思うのです。

 筧まりかがどの時点で「ブラックフライデーを狙った無差別爆弾テロ」という手段で膨大な荷物を発注する「世界に責任を取らせる」ことにしたのかはわからない。

 ブラックフライデーの膨大な荷物をさばく為には大量の人手がいる。
 デイリーファスト社は異物の持ち込みや盗難の持ち出しを防ぐ方法を厳重にしている代わり、人そのものの審査は甘い。孔は前職の詳細を隠したまま就職できているし、エレナは本社の人間だと周囲に知られないまま着任している。
 そこに他意はない、大量の人手を集め、労力だけを抽出して管理する為のただのシステムだ。
 しかし筧まりかが「ブルータグ」のスタッフとして、物品出品者という納入業者のような立場として、全く見咎められることなく登録されたことをどう感じただろう。
 ことあるごとに本名で対処を訴えてきた筈の名前が何も警戒されていない。爆弾予告を出した後でも普通に勤務が続けられている。
 ちょっと変わった、同姓同名の少ない名前なのにも関わらず、探されていない。
「筧まりか」が無視されるのは、山崎佑が忘れられていることと同義であっただろう。
 そしてその仕打ちは彼女に「予告はしたがそこで止める」という選択を失わせたように思う。
 筧まりかは法的な保証を持てなくとも山崎佑の家族として、山崎佑が過去のものにならないよう主張し続ける責任を自ら負っている。
 デイリーファスト社の答えが無視ならば、実行する以外の道はなかった。実行しなければ今度こそ「山崎佑」のケースは終了の判を押されてファイルごと削除されてしまうから。
 そして他人の遺体に紛れ、もう存在しないのに探し続けられる幻の犯人となって事件を終了させないことが筧まりかの選んだ「責任」の形だった。
 山崎佑の為に命を張ることでしか佑との絆を世界に証明できなかった、悲しい人の物語。


3:普通の生活がある筈だった。

 筧まりかや爆弾の製造を請け負った春日は、本来は皆普通の、まじめでよく働く人たちでした。
 まりかはブルータグスタッフとしても成績優秀だったし、春日は爆弾の不良品もきちんと伝え、120万の報酬で遊ぶことなく「借金の返済と母親の葬式」という身辺整理をする。
 特別な顕示欲や残虐性のある、そんな普通でない犯罪者は自分と関係ないと切り捨てられない人たち。
 何事もなければ犯罪に手を染めることもなかった筈の、普通の人だ。里中浩二の人となりはわからないが、ホームレス生活も相当窮乏してなければ戸籍を売るなんてことはしなくてよかったろう。
 犯罪者である彼らは明日の自分かもしれない、という設計と同時に、本作品はその選択を肯定しない。
 筧まりかが自分の始末にかかるときには恐怖と緊張で顔はひきつれ、遺体に残る生体反応は絶息するまでの苦痛を物語る。それでも自分の生存を偽装し続けることはできなかった。
 報酬で身辺整理が済んだから、死刑で自分も片づけば丁度いい、とばかりの口を利く春日はやがて「逃げ切って欲しいなあ」と共感した「ハッピーちゃん」が自分の爆弾で死んだことを知るだろう。
 里中浩二は遺体の引き取りを遺族に拒絶される身の上であり、まだ生存しているかさえおぼつかない。
 連続爆弾事件の中で死んだのは一応まりかだけだ。
 しかし、指や手を失い、目や耳を損傷し、目立つところに大きな傷跡を受け、勿論心に大きな傷を刻んだ筈の被害者は沢山いる。死者の少なさは犯行を免責しない。
 犯罪ではないが、山崎佑の自殺未遂が戻れないが死に切れない、誰も守れない結果に終わるのは既に書いた通り。

 犯罪も自殺も、追い込まれて破滅を夢見たときのような美しさには終わらない。それを選ばないでくれという制作陣の真っ当で真摯な祈りが心に響く。
 ラインを止めて、運賃値上げの交渉を鮮やかな手回しで決める側を選んでくれと。
 その祈りをとても美しく思うのです。

 筧まりかが残した最後の映像は、山崎佑のマンションに現れたときのものである。マンションの防犯カメラのログ保存期間中、住民以外に訪れた女性のただひとり。
 写真が一枚だけ示されるということは帰りは男装したのではないでしょうか。
 佑の部屋をつい最近まで人のいた「爆弾魔の部屋には見えない容疑者の部屋」に作り、彼の部屋着を着て自分の着た服をごみに捨てて帰っていった。それは最後の勤務日であったかもしれないし、最初の爆破事件を起こす寸前だったかもしれない。
 もしそうだとすれば、彼女の選んだ死装束は彼の部屋着だったということになる。
 見舞いにもいけない、まだ閉鎖されてない戸籍に名前を並べることも叶わない彼女の最期に寄り添う形見が肌に触れる服だという幻想は、無惨な最期に許されるただひとつのはなむけでないかと思います。


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 追記:
 一年ぶりのご無沙汰でございました。
 ちょっと家のことでバタバタしていたのが片付いた途端に少し燃え尽きてしまって、こんなに時間を空けてしまうことになりました。
 ぼちぼちとまた書いていければと思います。よろしくお願いします。

もう「お蔵入り」は十分だ。2023/07/15

 不祥事だ、というと一斉にDVDもBlu-rayも売るな、配信もだめだ、再放送など以ての外という対応になって、しかもそれは「社会的責任」の名の下に行われる。
 その結果当事者以外の出演者及び制作スタッフは「お蔵入り」の責任に連座することになり、作品のファンはどれだけ熱を込めて紹介しようと「今は見られないんです」で結ばざるを得ない。
 そして理由が公開されるかどうかもまちまちなまま、まちまちな期間でまちまちな範囲の制裁解除がなされていく。地上波の再放送が一番遅いのは均一であろうか。

 不祥事と言っても人前で醜態晒したり不倫など、イメージダウンが激しいものから「犯罪者」となる刑法犯まで様々であるが、この話では刑法犯に絞る。
 薬物の使用、性犯罪、暴力、そして一家心中の生き残りに責任を問う自殺幇助が付け加わった。

 悪いことをした人はそれなりの報いを受けるべき、という感覚は素朴な感情ではある。
 しかしその報いは、本来を司法の手によって為されるものというのが法治国家の原則でしょう。
 勿論司法によって与えられた刑罰は、受けたことでその罪を無かったことにはできない。
 一般に多くは事件を原因に職を失う。それは社会的地位を奪い、罪の発覚以降将来へわたって収入を奪う社会的制裁となる。
 しかし再犯のおそれ及び「普通」と違う経歴を持つ者への不信に基づく排斥は、本来差別である。
 実際に再犯・累犯する者の多さや、犯罪が全てを失わせるイメージに犯罪抑止効果を期待することで見逃されているだけに過ぎない。
 実際刑の執行後の元犯罪者の人生は受け入れるコミュニティの有無と性質に掛かっているし、そこには過去犯人がどのように生きてきたかも表される。
 しかし芸能人は将来にわたる仕事の前にまず過去の仕事を失う。
 巻き添えにする者を増やすことは仕事上の人間関係も壊すだろう。
 積極的に社会から追い出し、過去の仕事を無かったものにし、自分たちは犯罪を肯定しないとアピールする。
 それが犯罪者になった者に仕事を与えたものの「社会的責任」というのである、が。
 それは何に対してどういう根拠で誰が負う責任なのか。

 疑問はある。
 そして不満はあれども顧客が「仕方ない」と落ち着きがちなのは、自分が作品を見たいと、他人にも見て欲しいと思うのが「我欲」と思うと後ろめたいからである。
 後ろめたく感じるようにされてしまった。
 犯罪者に与える制裁を嫌だという事は犯罪者を甘やかすことであり、被害者がいる場合は被害者の軽視であり、「社会的責任」に異を唱えることは「反社会的」に思えるからである。
 皆「いい人」でありたいのである。
 私だってそうだ。
 しかし、犯罪に対して社会が負わせる責任は本来司法の手で負わされた量刑であり、その他の私的制裁には何ら法的根拠がないのではないか。
 犯人は犯罪を行うまでは何の制限も受けない市民であり、刑を受けた後は本来また市民に戻るのが法である。
 根拠と限度のない私的制裁に賛同することは、果たして妥当なのか。
 それは相手が犯罪者であることを理由として、懲罰を超えた新たな加害行為に賛同することになってはいないか。
 考えるべきは最終的な製品の買い手であり業界の外にある私たちではないのか、考える時期にきているのではないかと思うのです。

 犯罪を起こす前の、何問題を起こすでもなかった時期の作品に連帯責任を問う根拠はあるか。
 犯罪者となる未来を予知できない以上、制作段階では全力を尽くすのは当たり前ですし、それは何ら罪を問われる必要はありません。

 しばしば根拠として用いられる「被害者の感情」は本当に被害者の救いになるのか。
 被害者の救済は、被害を受けたことを原因とする生活上の不利益を一切受けない形が理想と考えます。
 被害者は加害者がどう刑を受けようが、制裁を科されようが、加害者の人生に責任を負わされるべきではありません。
 被害者の感情が満足する時なんか来なくて当たり前です。だからこそ被害者に制裁を終わらせない為の責任を押しつけたらいけない。
 立場が弱いのは、被害者です。
 加害者の映像が心理的につらい、というのはあるでしょうし、特に症状がひどい、生活に支障があるというケースもあるでしょう。
 それは個別に考慮すべき事案であって、一般化する必要があるでしょうか。
 事件の現場となった建造物は建て替えられるケースもある。
 しかし、限られる。
 学校や福祉施設など利用者が選択できる代替施設があるとは限らず、利用者の自由にできない滞在時間が長く、かつ利用者がそこにいる自分と被害者を重ねて事件を想起し、危険を感じる割合が無視できない人数に至るケースである。
 それ以外の場合、たとえば駅や高速道は現場であってもそのまま残る。重大事故を起こした車と同型式同カラーの車は回収されない。
 社会から無くすことの損失が、その効果に比して過大とされるからでしょう。
 映像作品の影響は無視できるほど小さいですか。
 見たい人が選択して再生する配信形式だとしても、作品の存在を許さない方が比重が大きい程に小さいですか。
 私がある程度納得できる「お蔵入り」の理由としては、公判ことに裁判員裁判において加害者のパブリックイメージが被害者の不利益に繋がる危険性が上げられます。
 しかしそれも控訴審以降、専門家の領域で行われている裁判の過程がパブリックイメージ程度の影響を排除できないとしたら、むしろその方が問題なのではないでしょうか。
 また、回復不能な被害の償いも金銭による賠償とする現行法制度の中で、滞りなく支払いが行われるべきことを考えれば、その為の原資がある方が支払いは順調に決まってます。

 そして作品を事実上なかったことにする制裁は、業界に属する人間と制作環境の健全化と再発防止策に役立つのか。
 一向になくならないではないですか。
 制裁だけが業界の「努力」なのかと疑います。

 そもそも制裁解除に至る経過に公正性はあるのか。
 実際は誰かが「もうよかろう」と言えばよくて、その「もうよかろう」の裁定が業界内の権力になっているのではないか。
 その裁量権はハラスメントに繋がるものではないのか。
 業界の外から見ればたかだか所属事務所の移籍程度のことでさえ、ブランドとして育った名前は置いていけの、クライアントが仕事を与えないよう手を回すの、同じグループとしての活動が維持できないよう人数を分けろの、嫌がらせとしか思えない行為を隠しもしない芸能業界に対し、その公正性を信じるのは残念ながら難しいことです。
 先だって、ピエール瀧の映像作品が解禁されるに当たって、「執行猶予期間が無事満了し、本人も活動を再開している」旨の理由の告示がありましたが、その程度のことさえ稀です。
 加害者の正しくなさを追及するなら、自らもまず正しくあっていただきたい。

 以上、長くなりましたが「お蔵入り」は根拠が甘く責任の所在もあやふやなまま恣意的に行われている私的制裁であり、社会的にプラスの影響は見られないと思ってよいのだからそろそろ改めるべきだ、という一介の零細顧客の主張でした。

「お蔵入り」の損失を許容範囲に抑えた規模でしか作品を作らないとする。
 人数を使えば使うほどリスクが高いから少人数。引退までの時間が長い若年者こそリスクが高くなるから出演料は一層間引かれなければならない。制作費の上限は損失見込額だから、技術の質なんか知ったことじゃない。
 そんな映像作品の制作事情が当たり前になったとして、その制限下で目を見張る作品が果たしてできますか。
 精魂込めた作品なしで、芸能業界は発展していきますか。
 それで海外の作品と戦っていけるのですか。
 閉じて縮小していく一方の市場ではどんどん資金が入らなくなり、ろくに育成もできないままの若者を、その瞬間だけ消費していく業態に落ちかねませんが、それでもこの制裁の慣行を続ける価値がありますか。
 やめましょうよ、そろそろ。
 作品のエンドユーザーとしては、関わる人が脅されることなく普通の職場として普通に働ける産業であって欲しいです。

「どうする家康」:CGの戦で何が悪い2023/06/10

 合戦は戦国大河の華である。 勝敗で運命が変わるドラスティックなイベントであり、幾多の命が果てる緊張感がある。 普段と違う鎧甲という華やかな装備をまとい、馬にも乗る。 究極の非日常である。

 さて「どうする家康」にも当然戦はある。むしろ多い。 そして感想で頻出するのが「CG」である。 曰く、「作り物である」「強調が安っぽい」「ゲームだ」。 どうしても否定の方が目に立つようなのだけれど、はたして本当にそうか。 CGの戦は果たして悪か。

 CGの是非を問うならまず「戦のシーンに求められるものは何か」次いで「その表現にCGを用いるのに不足があるか」を語る必要があるでしょう。 先程述べた通り、合戦は華です。 つまり求められるのは普段にない服と装備を着用し、馬に乗り、命と運命を賭けて戦う緊張感。「すっごいゴージャスなものが見たい」 これが要求になります。 ではCGはこれに足りないのか。 CGは、確かに演算で描いた絵だ。生きた人や馬はそこにはいない。 とは言え、見分けはつくだろうか。 去年の大河、撮影の新兵器たるLEDスクリーン、きっとこここそCGだと思ったシーンを「実はロケ」と明かされることが何度もあった。逆に「えっそこがCG?」という場所もあった。 お前の目が節穴だからだよ、というご指摘は甘んじて受ける。 しかし私には実際見分けがつかなかった。 見分けがつかない以上、CGであるかどうかの詮索は意味がないと思う。 4月16日に公開されたフルCGの戦場シーンのサンプル動画は美しかった。ここまで技術は進歩したんだなあという感想しかない。 勿論私は目利きとは言えないし、テレビも未だに4K非対応である。 しかし逆に4K以上だとしっとり鮮やかな階調で大変美しいのだ、という迫力に「騙されている」訳でもないと言える。 要求に応える十分な品質は既にあります。 大体スターウォーズや特撮映画なら、そのあり得ない光景を作り出す技術は評価の対象でしょう。 号令ひとつで自然に歩いてくれる訳ではないCGを高品質に作る手間は決してインスタントなものではない。当然お値段も張る。 何故大河だけ、しかも戦だけ「CGなら手抜き」なのか。

 何もロケと実写に価値がないとは言わない。 実際の広い空間と空気の流れ、生きた人と馬、実物がそこにあるという情報量は大きいし、演じる役者さんにも影響するだろう。 気象条件による偶然の美が撮れる可能性もある。 それは紛れもなく屋外ならではの良さだ。 一方でロケ、ことに戦場のロケの難しさというものも存在する。 まず合戦が撮影できる広さと構造物の少ない土地は、限られている。 そしてその土地に撮影の為の人員資機材を持ち込み、撮影し、撤収するまでの運営管理の複雑さ。 天候に大きく左右されることによる、人員の拘束時間の長さ。 その困難ゆえに、ロケは予算がかかる。 ここぞという時にこそ使う。 大河にとって「合戦が華」なのは物語の大事な転機に合戦があるだけでなく、予算に値する効果を期待するところもあるのではないでしょうか。

 ここでひとつ話を変えますが、「どうする家康」にとって戦は特別なイベントでしょうか。 初回の「大高城兵糧入れ」から始まり、桶狭間を経て岡崎入り、今川から織田に乗り換えてもずっと、大国の国境にある小国としての争いが続きその疲弊が「三河一揆」に繋がる。今川がなくなって武田を警戒しながら織田の要請に応じて上洛からの北陸攻め、そこからの「三方ヶ原」から「長篠」である。 すなわちこれまで21回、物語はずっと戦の中である。 鎧兜を着けていなくても、画面の中には常に戦場の後方である意識がある。 常に戦場だからこそ意識の底にいつも流れる「厭離穢土欣求浄土」の旗印とも言える。 最早特別なイベントではない、戦は日常です。 この頻度だと、戦の映像にあるもうひとつの側面が浮かんでくる。 戦場は、画面の変化が乏しい。 戦の規模や重要性に違いはあれど、自らの浮沈を賭け集団で行う殺し合いである。  土地の条件は異なり、顔ぶれも異なり、それでも起きることは大体同じこととなる。 いつも通りに遠距離から近距離の順で武器を振り回し、その中に騎馬武者が点在し、殺したり殺されたりするのである。 見た目が変わらない。 見た目にも明らかな武器や戦い方の変化があるときは、それまでの戦がパターンだからこそ違いが際立つ。 21回までの戦の様子は、ほぼ同じだ。 だからこそ鵜殿長照父子、お玉、田鶴、阿月、本多忠真と夏目広次、鳥居強右衛門とエピソードで戦ごとの変化をつけている。 エピソードの他にも、戦の場所は領土の境から遠征での合力、領内での一揆鎮圧。相手は今川武田といった強豪から農民という立場も心情も様々で、地形から見ても海辺、城郭戦、河川敷、平野と様々です。 この頻度もパターンも満遍ない戦具合をロケだけでまかなえるか。 あまり現実的ではなさそうです。 だからこそ、ロケとCG+セットの組み合わせになるのでしょう。 ずっとずっと戦、誰とでもどこまででも戦という連続性は「厭離穢土欣求浄土」と一続きなので、必要性あってのツールと思います。

 そもそもロケには再現に徹しきれない限界がある。 安全確保の必要性は重い。 戦は殺し合いだが撮影で死亡事故を出す訳にはいきません。 堀や崖、人を殺傷して進軍を止める設備や罠をそのまま作る訳にはいかないし、一度に突進する人数等、安全確保の為に加えた「手心」はしかし画面に映る。 馬は人以上に事故のリスクが高い。 過去「武田信玄」で見事な騎馬隊が編成された実績はありますが、それが通例とならなかったということは、画面の外に二度とやらない(やれない)だけの困難があったという推察ができます。 戦に本物を求めると、安全確保もままならず「いやーやっぱりせめて重傷者の数人は出して馬も2〜3頭は死んでてもらわないとねえ」ということになりかねない訳ですが、やるべきですか。 違うでしょう。 CGなら人が死にかねない設備を作り、戦場らしい人数を突撃させ、史実的には正しくても人馬をともに危険にさらす密度で軍勢を動かすことができるのですが。 実際には撮影隊が展開できない地形での戦場を作れる可能性も出てくる訳ですが。 その場合どっちが「忠実な再現」になるんでしょうね?

 勿論技術的にまだ発展途上の粗さを見ることはあります。 ことにスタジオ内に作られた山道の空気感はちょっと屋外との違和感がある。 CGの制作現場と実写の撮影現場が別々であることの連携の難しさ、それぞれにコントロールしていく必要のある各種考証、他にも色々新しい技術を導入したからこそ変わらねばならない制作現場の流れや、やってみて初めて出てくる問題点もあるでしょう。 それでも、新しい技術で表現できることが増えていく可能性を私は信じたい。 人や馬のひとつひとつの動きに対する注目が低くなる遠景の「群」の中まで本物である必要がありますか。 本当はもっとこうなんだよ、という再現を、自由度の高いカメラアングルでの映像を、見てみたくありませんか。 CGを使えばこの先もっと進歩があるとするならば、それは試行錯誤しながら進む他ないのではないでしょうか。

 だとすれば、CGの戦の何が悪い。 私はそう思うのです。