「作りたい女と食べたい女」:食べるように、当然に。2022/12/19

1:「つくりたい」と「たべたい」はWin-Winか?

 沢山作りたいのに小食である野本さんと、いっぱい食べたい春日さんの出会いから物語は始まる。
 いかにも互いの利害が一致した幸せな出会いに思える、が少し待って欲しい。
「つくりたい」と「たべたい」は当然に引き合う話だろうか。
 作中の野本さんのモノローグを引く。
「自分が好きでやってることを全部男のためだって回収されるの、つれーなー……」
 料理を作る趣味が恋人や家庭に奉公する下準備として扱われがちなのは、それだけ趣味の労力にただ乗りするケースが多いということだ。
 一方で、食べきれない量の料理は野本さんにとって作品である反面、不要品でもある。
 不要品を受け入れる関係。
 そう考えてしまうとこれもひどく冷たく響く。
 食べることは処理ではないし、一方的な施しを受ける理由もない。

 つまり「つくりたい」と「たべたい」は間に良好なコミュニケーションがなければ利己的な願望の組み合わせに過ぎず、だからこそラブストーリーの命題になった。
 改めて野本さん、春日さんにとって「つくりたい」「たべたい」の意味を考えてその仲立ちが「食事」でなければならなかったのかを考えたい。


2:心を満たすための「つくりたい」・野本ユキの料理

 野本さんの料理は、趣味である。
 自分の三食は日常の生活の領域だけれど、そこを超えたところが趣味になる。
 作らなくてもいいが「つくりたい」。
 それが趣味としての料理であり、何故必要なのかと言えば日常から少し離れた世界を作るためである。
 日常からの逸脱は心に余裕を作り、活気を取り戻す。
 野本さんの料理の原風景は「ぐりとぐら」の巨大カステラはじめ、絵本や児童文学の祝祭的な料理にある。
 だからこそ原風景に触れる為には量が要る。取り戻したい元気が多ければ多いほど大量になる。
 自分の食べられる量を過ぎればそれは勿論余るけれど、心のために必要であり、心に必要なものだったからこそ野本さんは残りの部分をも大事にしてきた。雑な振る舞い方も廃棄もしていない。
 作れたらいい訳でも食べてもらえたらいい訳でもない。
 見ただけで非日常とわかる菓子や海外の変わった料理ではなく、家庭料理の範囲で量だけを非日常にする。野本さんの料理は一見趣味とわかりづらい。
 だからこそより「男」「家庭」と日常の拡大を望んでいると思われがちになるだろう。「回収」である。
 自分の心の拠り所、不可侵の領域を他人の日常に回収されるのは、尊厳の侵害に近い。
 野本さんは作りきった非日常を、処理能力の低い自分の日常に回収しなければならないことを嘆きながら誰も招いてこなかった。
 他人に踏み込まれたくない場所だからである。

 では本当に他人は必要なかったのか。
 己が日常に組み込んで奉仕させることを当然とせず、自分の大事に作ったものを同じような大事さで扱ってくれる評価者は、作り上げた非日常の回復効果をより高めてくれるのではないか。
 イマジナリーな動物たちでしか果たせなかった、その部分。
「お鍋をからっぽにしてくれる人」である。


3:自主独立の為の「たべたい」・春日十々子の食事

 春日さんの食事は、人生である。
 大柄で筋肉質な体と力仕事が要求するカロリーであり、そして実家で強いられてきた抑圧から逃げて現状勝ち得ている自由の象徴である。
 男尊女卑のコントロールを強く敷いた実家で女という理由で劣位に置かれ、食べ物の量も家事の負担も男と違いテレビを見る位置も制限され、隠れ食べが見つかることにさえ怯える日々。
 だからこそ今なお勝手に量を減らされること、食べ方に口を出されることに彼女は静かに、しかし確実に怒るのである。
「普通に、ついでください」
 たかが量、ではない。
「減らしておきました」は動機が善意であっても「女であることを理由に権利の制限を受けた」なのである。
 餃子の食べ方について管を巻く酔客については言うまでもない。
 食事は彼女にとって人権である(勿論他の誰にでも、であるのだが)。
 常に守る意識がないと、刷り込まれた抑圧の習慣に呑まれて奪われそうな、孤独で繊細な戦いでもある。
 食べたいものを、他人からの制限なく、食べたい量食べる。
 それが彼女の心を守る。
 だから春日さんはフライドチキンのバーレルふたつとそれ以上、人目に立つ店内ではなく自分一人のための大きなテレビと、自分の体が伸び伸び過ごせるベッドのある自分の城で食べるのである。
 他人に踏み込まれたくない場所だからである。

 しかし、ずっと一人でいるからこそ意識の底は実家の軛から抜け切れていない。
 弱みを見せない、借りを作らない、礼儀正しさの鉄壁。
 鉄壁故に他人を近寄せない、愛想のなさ。
 味方が欲しいと思うことさえきっと「弱み」と思ってきただろう。しかし孤独な戦いを続ける彼女を肯定してくれる味方は本当は必要だった。
 そう思う。
 思えば春日さんは常に常軌を逸した量を食べている訳ではない。
 唐揚げ定食ご飯大盛り程度の、普通によく食べる人の食べ量だ。
 フライドチキンの日、餃子三人前とご飯大盛りの日、きっと彼女にはストレスの溜まることがあったのだ。
 会社の飲み会で大皿からほんの少しの取り分しか回ってこなかった日のように。
 あの日の彼女を救ったのは、野本さんの「差し入れ」だっただろう。
 野本さんは決して春日さんの胃袋だけをつかんだのではない。


4:食べ物だからこそ、描ける愛

「つくる」と「たべる」にそれぞれの生き辛さを乗せて、二人の繋がりが始める。
 始めは野本さんが特盛りのルーロー飯を出し、春日さんが食べる。
 言ってみれば「物」としての授受だった。
「つくる」理由を聞かずに食べて欲しい野本さんと、「食べる」ことに口を出されたくない春日さんとでは、おそらくその始まり方がベストだった。
 理由や事情に触れるのは、心の一番敏感な部分に踏み込むことだったからである。
 野本さんが春日さんの食べっぷりに惚れ込むのは、作る理由を解釈されないからでもある。
 春日さんが野本さんの料理に誘われるのは、食べ物を通じた支配を受ける気配がないからでもある。
 対価の収受によって心理的な不均衡を是正し、持続的な関係を求めるようになるまでは割とすぐ。
 二人で食べるようになり、度を超した特盛り料理が減り、春日さんは会話を楽しむようになり、野本さんは一人ではあまり飲まない酒を楽しむようになる。
 無機質な物体のやりとりでは既にない。食事はコミュニケーションの場になっている。
 ストレスをぶつける「つくる」「たべる」から、二人の食卓を楽しむようになったということである。
 その末に、互いに「つくる」「たべる」の一番触れられたくないところを打ち明け、共感するに至る。
 その後で作られるシュトーレン風パウンドケーキ、春日さんは少しずつ食べるルールに抑圧を感じないし、野本さんはちまちま食べる春日さんの姿も変わらず愛す。
 触れられたくないセンシティヴ、ただの物体、コミュニケーションと信頼の深まる様子。
 それぞれの中で食べることの意味が変わることで、人生が他人と生きる形に変わっていることを示す。
 それはやはり友情でなく恋愛の結果なのだ。
 そしてその関係と心理状態の変遷を示すバロメーターに適切な物体は何か、と思えばやはり食べ物であったろう。

「作りたい女と食べたい女」は、レズビアンを題材に取るまだ数の少ない作品である。
 作品からはごく普通の、真面目に、生き辛さを抱えて生きる人が、普通に恋に落ちる相手が同性でありうる、その当たり前を描く意志を強く感じる。
 恋愛の相手を捜しているわけでもない、むしろすぐ結婚に結びつく恋愛の話に疎ましささえ感じる、30代の女性である野本さん。
 等身大の人が、生きてる限り誰もがする食事を通じて、恋をする。
 普通を重ねた先にあることは、当然普通だという導線の作り方。
 そして身長の高いがっしりした体で愛想のない大食漢、と「女性らしさ」の逆を取るように、それでも「男の代役」にならないよう長髪と丁寧な言葉付きに設定された春日さんのバランス。
 等身大の野本さんと少し異質の春日さんとを組み合わせることで、女とは何か女らしさとは何か、そして恋の相手に限らず「何故女ではいけないのか」という意識へも導いている。
 特殊な人の変わった性指向でもなく、未熟な故の恋愛と友情との混同でもなく、普通に恋愛の範囲と伝わるようであれと。
 好奇の目で見られやすい性的な要素を極力省いたこの作品で、二人が運命の人になっていく過程を示すなら、やはり食べ物を通じて描くことがよかっただろうと思う。
 食べること程人類普遍の、心と直結した行動はないのだから。


 ドラマ版は原作の繊細さと主張を踏まえ、テレビという発信側からは視聴層の選択ができない特性から考証を更に確実に取り、優しく力強く物語をアピールする佳品だったと思います。
 公式サイトに掲載される制作に関する記事や、全スタッフリスト(「全員」公表されるのは珍しいことなのです)を普段公式サイトまで当たらない人も見て欲しい。
 LGBTQ+やジェンダーバランスの問題だけでなく、これからの働き方やドラマのあり方へのひとつの提言なのだと思います。

「守銭奴 ザ・マネー・クレイジー」:喜劇とは何か。2022/11/29

1:「喜劇」とは。

 「守銭奴」は17世紀フランスでモリエールの書いた喜劇である。
 確かにアルパゴンの常軌を逸した吝嗇は滑稽と言える。
 言えるがしかし、怖い。
 ビニール素材の中で柔らかく拡散する寒色のライトは、アルパゴン邸が氷の館であることをイメージさせる。
 ストーブの赤、フロアスタンドの暖色の光はすぐ消され、主であるアルパゴンは無駄が行われていないか、自分の金が盗まれていないか、頻繁に邸内を巡回する。
 邸内に響きわたる警報めいた呼び出しベル、続いての足音に家族も使用人もおびえを見せる。
 ある一家の様子ではあるけれど、これは圧政の姿である。
 そして館の外は外で冷たく雨が降り、外に逃げれば解放される訳ではないことが示される。
 物語の後半、アルパゴンが庭に埋めた金が消えた後が更に怖い。
 館の庭、とされる荒涼たる光景。捨てられた古家具と枯れ木が点在する中、真ん中に金を隠していた人一人入る程度の穴が開いている。
 何故「人一人」の大きさだと断言できるかと言うと、かなり暗くされた舞台の中、その穴から出てきた影が人の大きさになり、アルパゴンであることがわかるというのが、このシーンの始まりだからである。
 ほぼ幽鬼である、その後ろ姿は正直ホラーである。
 ものすごく怖い。

 喜劇 とは。

 少なくとも所謂コントと同様の意味とは受け取れない。
 滑稽ではあるかもしれないが、その笑いに幸せの暖かみはない。
 つまり、喜劇の要素は「楽しい」ではないことがわかる。
 ならば、喜劇が悲劇とも他の演劇とも違うジャンルを形成している基礎は何であるか。
 本作の笑いの基礎は、現実にはありえない程に誇張された吝嗇、という歪みである。
 現実にありえないことと、現実とのギャップで人は笑う。
 一方で、現実にはありえないながら、観客はこのありえない吝嗇ぶりの想像ができる。
 概ねの人は、程度の差こそあれ皆吝嗇であり、他人の吝嗇に悪態をついたこともあるからです。
 現実にはあり得ないことが起き、しかしそのあり得ないことが想像はでき、それでこそ現実とのギャップで人は笑うのではなかろうか。
 あり得ないことを現実の延長線上に構築するためのロジック。
 そして誇張された姿が滑稽に写るよう作るためのアイロニー。
 現実にあり得ないことが起きる仮定の世界を、皮肉に笑う。それができるのは誇張された自分の欲を投影できるから。
 しかし皮肉で笑わせる、というのはポイントを外すと寒い。
 皮肉は愚かさを笑うという意地の悪い笑いであるからである。 
「冷笑系」という皮肉を皮肉る表現が現れて久しい。
 少し視点をずらすが故に論点から正面に取り組むことを回避する、その自分を棚に上げた無責任な「上から目線」は嘲笑の対象であるということです。
 的を外せば皮肉は簡単に「冷笑系」に堕す。
 あくまで自分の底にある愚かさを共に笑うように導かなければ後味が悪い。
 高ぶった感情で不都合から目を逸らせることなく、観客に冷静に欲望の醜さを共有させなければならない。
 おそらく公演する時代と土地に合わせて皮肉をチューニングするのが演出の腕前ともなるでしょう。
 その繊細で難しいアイロニーの演出と支えるロジックの構築を、本作に見たように思います。


2:プルカレーテの喜劇

 思えば2020年の野田版「真夏の夜の夢」も喜劇ではあったのですけれど。
 恋の移ろいやすさと、想いだけではない富や社会的立場を手に入れる打算、それに振り回されるさまを笑う「真夏の夜の夢」。
 しかし野田秀樹がシェイクスピアへ大幅に手を入れたテキストで示されたのは、恋や打算を争う以前に世界からはじき出された者の復讐であり、その復讐から世界を取り返す戦いの物語だったように思います。
 シェイクスピアの世界そのものを皮肉の対象とする、換骨奪胎の手法そのものが喜劇的ではあるけれど、物語としては脱喜劇であったと考えることもできる。
 日本で見られるここ五年の作品4本しか見ていない私にとって、今回が初めて見るプルカレーテの喜劇となります。

 今回の「守銭奴」について、おそらく一番大きな変更はラストシーンだと思います。
 岩波文庫「守銭奴」(鈴木力衛訳)を紐解くと、物語は二組のカップルの結婚式の費用をアルパゴンの晴れ着までアンセルムが負担することを約束した後、ジャック親方の為に警部の要求する捜査費用も負担して、全て丸くおさまったところでアルパゴンが金の入った「わしのかわいい箱」に執着を見せ一座から離れていくところで終わる。
 人々が離別家族の再会と結婚の支度に沸き立つ中、一人金しか見ていない「守銭奴」アルパゴンの滑稽を笑って幕となる。

 プルカレーテ版において、ジャック親方はすげなくアルパゴンに見捨てられたまま、誰にも省みられることなく警部に引きずっていかれる。
 アルパゴンは、戻ってきた箱を抱えたまま何にも関心を示さなくなり、遠巻きに人々が離れ舞台を去った後、箱を抱いて再び金を埋めていた穴に入っていく。
 その姿は、やはりアルパゴンの死を想定するのが妥当でしょう。
 では、何故アルパゴンとジャック親方は死を暗示しながら舞台から去らなくてはならないのか。
 圧政を強いる狂気の支配者がアルパゴンであり、その傍らにある忠実な道化がジャック親方だったからだろうと思うのです。

 本公演の演出において、金とは支配力の源泉でした。
 ため込んでいる金をいつかは、理由によっては、使うだろうという期待が家族や使用人たちをアルパゴンに引き止めている。
 一万エキュの盗難がアルパゴンを一層の狂奔に駆り立てるのは、金を失うことが支配権の喪失に他ならないからです。
 クレアントはラ・フレーシュを通じて父から奪った一万エキュの箱を抱えて初めて父アルパゴンと交渉する力を持つ。
 交渉条件を飲み金を取り返しても、一度膝を屈したアルパゴンに支配力は戻ってこない。
 既に場にはアンセルムがいる。
 更なる金持ちでしかも気前よく金を使うアンセルムの出現に、人々は一斉にアンセルムの側へ走っていく。
 そのアンセルムに対し、アルパゴンは結婚式の費用や自分の晴れ着と言った支出の要求をするのが精一杯で、それも受け入れられてしまえばもう抵抗のしようもない。
 金を使わないことで圧政を強いてきたアルパゴンは、金を使わないことで支配権を失うのです。
 行動は同じまま立場の反転するアイロニー。
 そして支配する相手も失った中、使うこともなければ何の効果ももたらさない金を抱えて消える。
 その姿は狂った王の哀れな末路と写りました。

 一方アンセルムも何でもかんでも金を出すのではなく、ジャック親方はそのまま警部に引きずっていかれる。
 勿論ジャック親方に罪はある。ヴァレールを陥れ危うく死刑にする所だった、しかし1万エキュの盗難については無実である。
 それなのに連れていかれるのは、誰もジャック親方を気にしていないからです。
 ジャック親方はアルパゴンに酷使される姿を滑稽に描かれる道化であり、誰からも見捨てられる弱者である。
 ジャック親方の焼いた子豚の丸焼きを手元に残し、引きずられていく彼をただ見捨てる。アンセルムだけでなく他の一同も決してただ善き人ではあり得ない。
 子供たちも、使用人も、皆それなりに弱くずるいです。
 警部に払う調書代、それが払えないし誰からも払われない為にジャック親方は(おそらく)死ぬ。
 酷使に耐える忠実もいろいろ器用にこなす技術も買われないアイロニー。
 それにアンセルムはアルパゴンから提案されたエリーズとの婚約を一時は履行するつもりでアルパゴン家を訪れている。
 なのにアンセルムがアルパゴン邸に持ち込んだ大きな袋の中身は大団円のサプライズとして現れる、マリアーヌの母で自分の妻です。
 考えれば考えるほど、何故そうしたかと。
 かつて動乱でナポリを追われたドン・トーマ・ダルブルチは善き支配者であるだろうか。
 経緯の差こそあれ、息子と娘の養育に金を払わず、息子の恋人である娘のような年頃の女と結婚しようとした点では、アルパゴンとアンセルムに大きな違いはない。
 アンセルムの善き支配は、所詮金の払いの気前良さからくる現段階の期待の内でしかないのです。

 金を使わないことで発生した支配権を、金を使わないことで失う。
 支配力の目減りを気にして使えない金を、金以外の全てを失った後も後生大事に抱えて消える支配者の末路。
 金を使う、ただその一事でそれまでの全ての経緯を忘れて歓迎される新たな支配者。
 動かさなくとも状況でその価値が大きく変動する金というアイロニー。
 その価値の変動を支配権の移る様で示すロジック。

 金という購買力の魅力。
 だから人は金を求めて支配される。
 従順な被支配者からひたすら搾取したい欲望と、寛大な支配者からひたすら与えられたい欲望とは表裏一体である。
 そして命まで購買力に左右される恐怖。
 強い者が助けない弱者を人の多くは省みない。
 命をさえ守るその力を人は求め、手に入れば執着し、目減りを恐れて使えなくなる。
 しかし使わなくなると金は金でありながら購買力をなくし、支配力もなくすのだ。
 元から金のないジャック親方同様に、アルパゴンは省みられることなく打ち捨てられ、購買力をなくした一万エキュを抱えて穴の中へ消えていく。
 笑いで終わらないからこそ金が持つ支配権の側面が浮き上がる。
 狂王の圧政最後の一日。
 その見立ては繊細で悲しみを含んだアイロニーであり、そのアイロニーは明確なロジックで支えられた動きの中にある。端正な喜劇のありようだと思いました。


3:再び喜劇とは。

 あり得ないことを現実の延長線上に構築するためのロジック。
 そして誇張された姿が滑稽に写るよう作るためのアイロニー。
 現実にはあり得ないことが起き、しかしそのあり得ないことが想像はでき、そのギャップを笑う。
 共感というには冷たく、自分の身を振り返ればうすら寒い。
 喜劇は楽しいものなのか。
 そう言われたら、時と場合によるんじゃないですかね……という歯切れの悪い答えになりそうな気はする。
 笑いどころがかみ合わない喜劇は、おそらく一切笑えない。
 幸せや嘆きを分かち合う種の物語より、笑いを引き出すのはずっと難しいのではなかろうか。
 そして人の無意識の下に持つ醜さを笑うのは醜いことであるか。
 勿論そんなことはない。
 醜いものが存在しないという仮定で蓋をする物語の方が高尚かと言えば、却って子供だましと言うだろう。
 世間の、人の、自分の、醜さをよく知った大人が改めてそれを醜いと確認して笑うことは、むしろ必要なことなのではあるまいか。
 あまり日本では馴染みの薄い作品性かもしれません。
 しかしそれが海外の古典作品に触れる意味ではないかと思います。

 シャープなロジックと繊細なアイロニーで構築された「守銭奴」に、そんなことを考えました。
 素晴らしかったと思います。

スカーレット・プリンセス」:違う視点を得る幸せ2022/11/13

1:違うことがある意味は。

「スカーレット・プリンセス」の、「桜姫東文章」のテキストを舞台形式まで美しく翻案された演出の美しさは、既に2020年のルーマニア・シビウ国際演劇祭のオンライン配信で見たときに述べました。
(http://12digit-cactus.asablo.jp/blog/2020/06/23/9260702)
 そして念願の観劇を果たし、改めて考えることがありました。
 プルカレーテの演出によって整理と再構築を果たした「スカーレット・プリンセス」は当然ながら歌舞伎で見る「桜姫吾妻文章」と完全に同じではない。
 通常の演劇と同じように、あの長い長い入り組んだテキストを読んで、上演に丸一日かける通し狂言を3時間弱の舞台脚本に直したのであるから、その行程にはプルカレーテの理解と解釈が大きく加わり、それを舞台にかける意味を定義されている。
 その結果だと思う。
 人物の心情の動き、運命の中で不可思議な人の動きの意義、物語としての流れはおそらく「桜姫東文章」より細かくわかりよくなっていると思います。
 清玄が彼女と結ばれないロジックはどこに原因があるのか。
 犯されて権助に惚れる桜姫の不思議はどうなっているのか。
 権助が「奪った家宝」でも「桜姫」でも利益が得られないロジック。
 そして、清玄と権助の間柄は。
 歌舞伎ではある程度「そういうものです」と流されていく人物の造形も、演劇として再構築する為にはきちんと作り込まなくてはならない。
 そこに演出家の意図があり、俳優たちの表現が乗る。
 それは「イギリス人が外国人のシェイクスピアを許すように(本作に違和感があっても)許してください」というプルカレーテのコメントが示すように、演劇化したからこそ生じた解釈であり、むしろ逆に歌舞伎の理解を深めることに繋がるでしょう。
 オンライン配信では英語で読んだ字幕を今回日本語で読むことができ、おそらく配信で見たバージョンの後から追加になったのだろう部分も加味して、改めて人物の造形と清玄ー白菊丸ー桜姫ー権助の三人四者の関係性も浮かび上がるように思いました。
 白菊丸と桜姫、清玄と権助、それぞれ同じ役者が演じる別人同士という組み合わせで考えた上で、この四者をつなぐ筋を考えていきます。


2:白菊丸と桜姫、縒り合わさる運命の糸

 物語の始まりは、来世の結婚を約束した清玄と白菊丸の心中でした。
 死に後れた清玄は生き続け、死にきった白菊丸ひとり約束通り。清玄の名を記した香箱の蓋を握りしめて女に生まれてきた。
 しかし、桜姫となった彼女は清玄には興味を示さず、清玄と同じ顔をした弟の権助に恋をする。
 二度にわたって犯され、捨てられた上身分を失い、女郎屋に売られ、尚妻だと言い張り執着する。
 にも関わらず、権助の正体が信夫の惣太、すなわち「都鳥の印章」を強奪し家名断絶に追い込んだ父と弟の仇、と知るや彼女は権助を撃ち殺して「都鳥の印章」を奪還し、それを献上するところでフィナーレに至る。

「桜姫東文章」と変わらないあらすじですが、その難解さは、ひとえに全く一貫性のない桜姫の心の動きにあると言っていいでしょう。

 ここで、ひとつ疑問があります。
 白菊丸はひとり生き残った清玄の裏切りを知っているか。
 知った上で転生したなら、裏切られた恨みは当然残るでしょう。清玄を全く覚えておらず、辛く当たって顧みないのはその為だと考えることもできます。
 この場合、生まれ変わった目的に「結婚」という要素が捨てきれなかったことが、恋の相手の歪んだ理由になります。
 では清玄の裏切りを知らず、生まれ変わりがいることを信じて結婚のため転生したら。
 白菊丸の思う「結婚」が具体的には男同士で果たせぬ妊娠と出産であったとしたら。
 顔もしかとわからぬ暗闇で与えられたセックスと結果としての妊娠・出産があって、その相手が「約束されし相手=清玄の生まれ変わり」以外の何なのだと執着するに足る十分な理由があることになります。
 清玄の祈りによって手が開き香箱によって白菊丸の転生である証明が成されるのに、桜姫が頑なに清玄を拒むことを考えれば前者、恨みも持って生まれてきたが結婚の願いが残っているので筋違いの恋に狂うことになる。
 この場合権助が清玄と瓜二つであることに「それでも清玄への愛着が捨てきれていない」意味を見ることができます。
 結婚の宿願が果たされたのにそれを否定するような事象を認める訳にいかないとするならば後者、運命の相手を否定するが故に清玄が疎まれることになる。
 この場合は暗闇で出会い、その時から恋の狂奔が始まっているのだから権助が清玄と同じ顔をしていることにそもそも意味などないことになります。

 私としては権助と清玄が瓜二つ、という設定に意味がないというのは少々無理があるかなと思うので、清玄への恨みを前提の中に含みたいと考えます。それでも恨みの中に捨てきれぬ愛がある。
 清玄には思い知らせてやりたくても、清玄とは結ばれたい。
 運命でなく子供を生まされたとは思いたくない。
 その矛盾した懊悩がある方が、白菊丸の「結ばれたと信じたい」が為に権助に執着する狂おしさがあるように思うのです。

 では、桜姫としては権助への執着はどうなのか。
 まずもって白菊丸の因縁とは別に桜姫としての人格はあるのかと言えば、私はあると考えた方が合理的だろうと思います。
 しとやかな姫の本性が恋の狂奔だというなら、出家によって恋そのものを断つ望みは出てこないでしょう。
 桜姫は大身吉田家の屋敷深くに育てられた姫君です。強姦され子供を産まされながら権助が忘れられず、腕に手がかりを刺青せずにいられない自分の異様な想いが怖かったのではなかろうか。
 ごく普通の少女ならそうだろう。
 自分の中に、自分以外の何者かがいる。生まれつき何かを握って動かぬ左手は如何にも何かの因果に思える。
 だからこそ出家することに救いを求めたのではないかと思います。
 清水寺で清玄に会ってしまい、手から落ちる香箱の蓋に桜姫がいっそう強く出家を望むのは何故か。身の内に白菊丸としての激情の気配を感じたのではないか。そこへより一層激情を揺さぶる権助が現れてしまう悲劇。
 気がついたら境内での淫行を受け入れ、身分を無くしていたのかもしれないと思うと。仏も家も彼女を救ってはくれない、因果の絶望。

 結局この恋の因果が消えるきっかけが「権助の正体が信夫の惣太」であるという告白になります。
 それはそれであまりにあっけなく。
 信夫の惣太は、桜姫にとって父と弟の仇。
 この名前でわき起こる怒りは、今度は白菊丸としての意識を圧倒したのか。それともさしもの白菊丸の激情も、清玄の亡霊と所詮代替品の権助の度重なる仕打ちで弱っているのか。
 正体を知って、夢は醒めたか。
 酒を勧めて権助を酔い潰し、赤子を殺して権助を撃ち殺す。
 カツラを取って白菊丸と同じ坊主頭、桜姫に着せられた緋色のスリップドレス。白菊丸と桜姫はどちらが優位でもなかった。

 ひとつの体に、17才の少年白菊丸と17才の少女桜姫が共存する。
 白菊丸を感じる怒り、桜姫を感じる悲しみ。
 ユスティニアン・トゥルクの繊細な演技でした。
 scarletはふしだらの色でもあるが、怒りに顔を赤らめる様でもある。
 理性もなく制御もできない激情そのものの「姫君」、タイトルに相応しいと思うのです。


3:清玄と権助、収奪した者は望みを無くす

 清玄は、恋人白菊丸の生まれ変わりである桜姫にいくら尽くしてもその心も体も得られないまま死ぬ。
 権助は、「都鳥の印章」も桜姫も金に換えられず、彼女との子供も失って死ぬ。
 しかし清玄は白菊丸との死の約束を裏切ったのであり、勿論権助は「都鳥の印章」も桜姫も偶々手に入れたものを横取りしているのであり、二人ともそれぞれ桜姫も「都鳥」も手に入れる正当性が無いのである。
 つまり、自分の犯した収奪の報いを受けて死んだとも言う。

 断崖の高さに怖じて約束を破り、恋人の死後も結局複数の稚児と関係を持ったと思えば「徳の高い高僧とは何だろう」と思うし、弱った体にむち打つように赤子を助けても結局桜姫を代償に望むからかと思えば感動や哀れみというより妄執の疎ましさを感じる。
 けれども、その流されやすい弱さと弱さを盾にした図々しさは人としてごく普通の悪さである訳で。
 白菊と書かれた香箱に、残された赤子に、長浦が拝領した赤いドレスに、失われた恋人を見て泣く喪失の深さ、舞台で直接見ると心を打たれます。

 舞台の中、清玄はセイゲンでキヨハルでオフェリアだと呟く一節があった。
 以前、オンライン配信で見たバージョンではなかったような気がする。
 清玄にかつて侍だった「きよはる」僧侶「せいげん」の二つの読み方があり、それを演じる「オフェリア・ポピ」の外見をしている。
 人の多面性、そして愚かで優しく身勝手で献身的な清玄は彼女であり私たちである普通の人で、誰にも起こり得る過ちと悲運を示すのだと思う。

 一方権助は奪った「都鳥の印章」を巻き上げ抜け目なく要求額をつり上げていくように見えて、印章を売りつけられる唯一の相手である悪五郎を殺してしまって全てを台無しにしている。
 桜姫を売り飛ばせば清玄の亡霊に邪魔されて失敗し、お十を代わりに出すことに成功しても結局その後桜姫に撃たれて命を落とす。
 普通の悪党から墓掘り人足まで身を落としたのも、元気よく強がっていても失敗を重ねた為だろう。
「都鳥の印章」と「桜姫」を両方使って身分を戻す賭けに思い至るまで何故これほど掛かるのか、そしてちっとも望みのなさそうな酔いざまはなんなのか。
 どうも転機は、墓掘り人足として呼ばれて見た兄の遺体だったように思えます。
「兄上、なんてこと」
 ただひとことの台詞だけれど、常に乱暴で伝法で快活な彼らしからぬ「兄上」。
 これだけで残月と長浦を追い出して家を乗っ取る様子に、言いがかりだけではない何かが乗るのは不思議でした。
 そこはやっぱり演技の力だったと思います。
 かつてその非行で家を追われ、出家で縁を切ったきり庇護してくれなかった兄への思いの中に「兄上」と改まった呼び方をする何かが残っている。
 なら権助が愛してはいない桜姫の「夫」という立場を離さない理由に「兄から巻き上げてやった」成果を誇る気持ちを読みとることはできないか。
 清玄から桜姫(≒白菊丸)、桜姫から権助へと一方向に巡った感情は清玄に向けて返ることになる。
 残月と長浦は清玄に毒を盛り、桜姫は清玄を讒言した。
 家を奪い取り女郎屋に売る、それは単なる収奪だけでなく彼の秘めた復讐となるでしょう。

 さて、桜姫は因果の元に権助の手元に返る。「都鳥の印章」を献上し吉田家の姫君「桜姫」を娶り武士に直る、という計画は「信夫の惣太」が「都鳥の印章」の強奪犯だと知られている困難はあるものの、成ればスラムの底から成り上がれる。
 しかし野心にしては、ひどく酔って自暴自棄のように告げる様子は絶望の色を帯びる。
 喜びのないその野心は、本当に権太の望みであったのか。
 死にたかったのではないか。
 兄は死して尚桜姫につきまとい、しかし自分が桜姫に絡んでも現れない。
 権助の、上手くやったつもりで何一つ上手くない不遇に、兄の死と自分の前にだけは現れぬ兄の亡霊は止めを刺したのではあるまいか。

 桜姫で白菊丸である女に撃ち抜かれ、運命はそこで終わる。

 このただ荒っぽいようで傷ついた内面もある権助と、悔いの祈りで立派な僧になり既に老い弱々しいようでいてしつこくその底に暴力性の覗く清玄。
 オフェリア・ポピの演技、直接言葉がわからなくても伝わる妙技でした。


4:赤子が死ぬ、世界は閉じてまた生まれる。

 桜姫と権助との間に生まれ、名もないまま死ぬ赤子。
 権助を殺す決意をした桜姫が、赤子を桶の水へ沈める背景にはこれまで舞台から消えていった全ての人が倒れ伏し、低い声で一斉に「人殺し……」とうめく。
 他の誰が死ぬときでもそういう演出はされなかったのですから、この赤ん坊の殺害はとりわけの意味があるということになります。

 生まれ変わって夫婦になる、という誓いが歪に捻れたことの象徴がこの赤子だとするならば、誓いが果たされた証明である子供は殺されなければならなかった。
 奇跡が歪に起こった世界を終わらせ、正しい世界を始めなければならない。
 そして世界が終わるということは、全員が死ぬということだ。

 子供を殺し、権助を殺し、「都鳥の印章」を運命を司るように立つ「侍」に献上した後桜姫も倒れ伏す。
 そして語り部の口上を経て、全ての人物が回り舞台を生き生きと踊るフィナーレに至る。
 回り舞台は舞台の死角部分から登場してくる別の背景ですから、これは桜姫が赤子と共に終わらせたのとは別の世界なのだと考えます。
 それが死後の世界なのか、別の次元の世界なのかは受け取り方が違ってくるでしょう。
 私は別の、清玄と白菊丸が結婚の宿願を果たす(或いは全く別の人生を生きる)殺された赤子のいない世界なのではないかと思っています。
「桜姫東文章」の「全ては元に戻ることを言祝ぎとする」という当時の歌舞伎特有の作法を、こう作ると演劇として無理のない解釈にできるんだなと思いました。

 勿論、人物像の作り方も含めてこの解釈だけが正解なのではないと思います。
 シェイクスピア作品が上演される度に、カンパニーごと公演ごとに異なる解釈や切り口を見せその違いこそが上演の価値とされるように、歌舞伎の脚本もそうできるドラマ性があると示した作品ではないでしょうか。
 海外公演も熱心にやっていた十八代目中村勘三郎が、平成中村座をシビウ国際演劇祭に掛けたときのご縁がこの作品のそもそもの切っ掛けとアフタートークで聞きました。
 異文化とは言え伝統を持ち敬意を払わなければならない神秘の儀式ではなく、演劇として歌舞伎の持つドラマ性を見て欲しいという願いの、ひとつの結実。
 本作の発端が東京五輪の文化セクションとして、海外の演出家5人にそれぞれ歌舞伎を演劇にしてもらうという幻のプロジェクトにあったと聞けば、残りの4本は一体誰でどの作品だったのか気にもなるのですが。
(こういう企画を潰すからあのていたらくなのか、あのていたらくの主催に首を突っ込まれないで済んだのが幸いなのかはわからないですね……)
 日本人にもしばしば「美しいけど難解」とされる「桜姫東文章」を選び、企画がなくなった後も作品を完成に導いてくれたプルカレーテの勇気と情熱に改めて頭が下がります。
 歌舞伎を神秘の儀式にして理解を遠ざけているのは、日本人も同じかもしれませんものね。

「侍」を除いて全ての男性は女性が演じ、女性は男性が演じるこの演劇では、体格差の逆転によって男性の繊細さと女性の強さが引き立ち、また悪事の質がそもそもの性別と結びつかないようにできていたと思います。
 しかしその中でも、男性と遜色なく見える長身の入間悪五郎と源吾のアクションはしなやかで美しかった。ことに悪五郎役のディアナ・フフェザンの華やかさはとてもチャーミングでした。

 一度の中止を経て日本に来てくれてありがとう「スカーレット・プリンセス」。とてもうれしかったです。

「鎌倉殿の13人」:終盤の義時と史劇の役割2022/11/09

1:正直、しんどい。

 原因は薄々わかっている。実朝と義時、政子の確執である。
 ちゃんと鎌倉時代を学問として学んでいない私のような人でも、近年実朝の再評価が進んでいるのは知っていた。
 繊細で実権を握られた哀れなオタク・貴族趣味の虚弱なうらなりビョウタンではない、ちゃんと政治的意欲もあり、朝廷とつきあう上でその歌才は相手の言語で話せる外交能力としても生きた。
 苦労はあったろう、軋轢もあったろうが、実朝を暗殺する陰謀を動かすメリットはおそらくどこの勢力にもなかった。
 その暗殺は公暁の単独犯説が有力である。
 というような、一般向けの談話と言えども史学的な根拠のある話をかじった結果、実朝の出現には期待があったのである。
 再評価を更に踏み込んで、それでも尚力不足であり、朝廷に危うい傾倒を見せ義時を敵視するようになっていく実朝と、それを力で押さえて煽るような義時になるとは考えていなかった。
 確かに「吾妻鏡」をベースに(関係良好を示す逸話もあるのに)過去幾多の実朝暗殺に関わる陰謀黒幕説が生まれているのだから、「吾妻鏡」からは外れてないと言われればそうなのだけど。

 しかし、過去の作品からも考証陣の選択から最新学説に気を払い、コミュニケーションの頻度も膨大と知られる三谷大河を思うと、作者が公暁単独犯他現状のスタンダードを知らない筈がないのです。
 とすれば、物語として敢えて深い対立を組む必要があったということです。
 おそらくそれは義時と実朝ではなく、義時と後鳥羽上皇との二項対立。
 二項対立の果てに、承久の乱を置いて物語を終わりにする。
 それは何故か、を考えるとすれば「両方消えてもらう」対消滅の構図になるのではないか。
 後鳥羽上皇が示すのは、既にピークは遠く去った王朝政治への復古。これと対消滅しなければならないのならば「国の成り立ちを根こそぎ変える」戦に始まる大変革の時期を生きてきた義時は、既に古い時代の亡霊と化していることになる。
 社会が大きく変化し、変化に対する反発から揺り戻しが来てまたそれを超えて前に進む変革の時期を終え、安定に向けて進まなければならない情勢の中で「潰す」以外の問題解決策を出せなくなった男は役目を終えるのである。


2:実朝に隠された解

 義時が消えなければならないのは、「板東武者の世を作る」宗時の言葉を変えられないからである。
 義時はこの「板東武者の世」の具体像を形にはできていないけれど、昔からの言葉をたどれば、板東と違う土地からの干渉を徹底的に排除した、板東独立軍事政権である。
 頼朝から政治の全てを教わった板東者である自分が、彼の血統をお飾りに頂いて「てっぺん」に君臨する。
 しかし、勢力の版図は既に日本全国にわたっている「鎌倉幕府」の中枢が板東のことしか頭になくていいのか。
 結局自分の領土に干渉する「東の奴ら」に不満を抱いた西国側、もしくは東北から、いずれ反抗される。
 二項対立の構図は、どちらかの殲滅かどちらかに併呑されるか、そのどちらかにしか落ち着かない。
 鎌倉幕府を守るなら、全国を考える立場にならなければならないのである。

 実朝が皇室の血筋を鎌倉幕府の形式上のNo.1に据えようというのは全体的に見れば間違いではない。
 この国の歴史を振り返れば、形式的なNo.1を実務上のNo.1と分け「No.1に殺されないNo.2」を作ることで政権が安定するようにできている。
 形式上のNo.1が実務上のNo.1に統治の正当性を与えるので、形式上No.2に甘んじる実務上のNo.1は形式上のNo.1を消し去ることができない。
 No.1の首がすげ替えられることはあっても、ひとまず共存することができる。
 天皇が直接政治を司る時代から実権が藤原摂関家へ移った歴史だけでなく、目を転じれば将軍を「お飾り」に置いて執権が実務を握るのも同じである。
 本作の実朝、言い出す施策そのものは史実通りそれなり正解なのだけど、その策が出てくる基盤がとんでもない感情論なので、正解としての説得力を失うとても残念な造形になっている。
 義時への恨みが実朝の原動力であるのが明らかであり、御鳥羽院を冷静に見ておらず、しかも公暁を完全に無視している問題が先に立つ。
 しかし自らお飾りとして価値の高いNo.1を迎えいれるのは政策として悪くなかったのである。
 皇族将軍の後見をする実朝の傍で、結局実務を任されるだろう泰時を残して義時は引退すればよかったのである。
 実朝に実子は生まれない。新血統の将軍は実朝が大御所のポジションを手放さないのであれば、実朝を凌駕する実務力を持たせられない。
 結果はきっと実朝の血統が続いた場合と変わりなかった。
 今度こそ隠居を引き留められはしなかったろうし、朝廷に鎌倉幕府の正当性を保証されれば幕府の地位は安定する。
 ふたつに別れた勢力を再びひとつの構造の内へ戻す試みは、時代の要請である。再び「新世界より」をBGMに発表されるに相応しい。
 いつまでも「西の奴ら」と「板東の我ら」で対立しようという概念こそ前時代の亡霊となるのである。


3:遠き山に日は落ちて

 板東をつぶし王朝政治への復古を目指す上皇と、西からの干渉を潔癖に排除せねば幕府が潰れると信じる義時が、共に消えて初めて次の世界に社会は進む。
 それを示すのならば、両者共に消えて清々したと言われる程に、醜悪でなければならない。
 散って美しい夢となる「敗者の美」ではなく、朽ち倒れることで森に光を導く「勝者の滅び」である。

 その滅びを劇的に飾る為、本作は上皇と義時の二項対立を史実を超えて強調してきている。
 畠山の乱に繋がる北条範政の死因、和田合戦に至る謀反計画を持ちかけた謎の男泉親衡の正体。
 明確な証拠のないグレーゾーンに全力で叩き込まれる上皇の差し金。
 血縁なき弟という義時の傷、神剣なき帝という上皇の傷。
 狙われた恐怖と反撃の恐怖とが義時と上皇を醜悪に追い込んでいくだろう。
 慈円の言うとおり「最も自分に似た者が最もおそろしい」のだから。
 姿が見えるようで見えない位置からの攻撃に身構える恐怖が人の思考を変質させ、相手がいる限り自分が死ぬと思い決める。
 そして至った対決の果てに生き残った側も深刻なダメージに自分を維持できず、ほどなく消える。
 クリスティの「そして誰もいなくなった」を思わせる構図です。
 誰が生き残った「最後の一人」を追い込んで片づけることになるのか。

 望んだかどうだかわからない内に「この国の成り立ちを根こそぎ変えてしまった未曾有の大戦」に巻き込まれ、前例のない中で必死に戦後の安定を目指し、果たせず、成果は次代に託さなければならない。苦労は多く省みられることの薄い人生。
 三谷幸喜が「北条義時の大河ドラマ」をそう作る意図はなんだろう。
 実朝と、あるいは政子と「史実」にない程険悪にしてまで、義時に正しさも意義も目立たない徒労の人生を送らせる意味は。
 しかしここで今視聴者として想定される人の過ごす、限界まできた長年の不景気に、コロナ禍に、疲弊しきった社会情勢を考える。
 自分の夢だったのかもわからない社会の変化に巻き込まれ、何が正解だかわからないまま周囲の意図を酌んで動くしかなく、その結果には自分も他人も何となく不満を残し、じゃあいっそ全てを変えてやり直そうかという程の気力も残っていないままぼんやりと昨日の続きの日を送る。
 そんな小四郎義時の姿は、割と今等身大の主人公なのではなかろうか。
 その姿に憧れるのではなく、「おまえ一人の悩みではない」と思う為の小四郎義時なのではなかろうか。
 物語は常に同年代の観客に向けて作られる。
 過去の現実を検証し積み重ねていく史学の再現ではなく、人一人の人生を歴史の上に物語として書く意味は「おまえ一人の悩みではない」なのではないかと思うのです。
 自分の生まれる遙か前から、自分の死んだ遙か先にも。
 その上で、今の生活にほんの少し前を向く勇気を。
 それが先に生きる誰かを救うかもしれない。
 正しくも強くもない大多数の人に向けた、主人公としての解。
 これがひとつの集大成なんだなあと、小四郎の孤独を思うのです。

「鎌倉殿の13人」:善児について考える2022/08/31

1:キリングマシーンの死について
 善児。
 史実にモデルのないオリジナルキャラクターであり、1話で頼朝と八重の子千鶴丸を川に沈めて以来、主の命に応えて現実離れした動きと殺陣とで数々の暗殺及び不審死を鮮やかに彩ってきた。
 32回、33回と頼家の強制引退から暗殺までの道のりとそれに伴う義時の変化と合わせるように、善児の衰えと死が導かれてきた。
 善児は感情のない声でものを言う、無情のキリングマシーンであり、モデルがないこともあって人物というより物語の装置のように扱われていた。
 子供だろうと前の主だろうと躊躇いなく手に掛ける、命令を断らない男。
 その初めての抗命が頼家の嫡男、一幡の暗殺である。
 できぬという理由が「あの子はわしのことを好いている」という感情である衝撃。
 それ以来人らしい感情の振れ幅を見せてきた善児は、頼家暗殺の現場で見た「一幡」の文字に動揺して致命傷を負い、その場を逃れた後でトウに親の仇としてとどめを刺される。
 運命の子供となった一幡、そしてトウの抱える複雑な思いを絡めつつ、改めて善児の最期を考えたい。

2:善児について考える
 まず、最期に向けての変化を見せる前の善児がどういう男であったかを考えましょう。
 人を殺すことに忌避感があるかというと、おそらく無い。
 しかし殺すことに何か嗜好性があるかというと、それもない。
 現代より簡単に人が死ぬ、死が身近である社会を舞台として描いていることは勿論前提にある。
 ことに、善児が仕えているのは「ナメられたら殺す」「勝つためには何でもする」腕力と地縁血縁で所領を治める板東武士である。
 そして考えていただきたい。
 この腕力が全てという社会の権力者、日頃武力が自慢の武者が、子供や血縁といった社会的・心情的理由で殺せない相手。それを自分が殺せる場合。
 それは秘かな優位にはならないか。
 日頃強さを誇示し、身分も財力も自分より上の武士が、できない事をできる。形は命令であっても、自分が頼まれる側です。弱みを握ることでもある。
 そこには一種の立場の逆転がある。
 元は農民、とだけ触れられる善児が下人奉公に出た事情はわからない。小作人の子なのか、次子以降で田畑の相続権がなかったのか、とにかく自分の力にできる背後を何も持ち合わせていないのは想像できる。
 武士ですら躊躇う種の殺人ができる人間は、当然仲間からも距離を置かれるでしょう。それでも困ることがない、コミュニティ最下層の弱者であったと推定できます。
 それが、暗殺の件に限っては「いないと困る」立場に回ることができる。自尊心の拠り所となってもおかしくないのではなかろうか。
 武士だ主だと偉そうなことを言っていて、下人である自分ができることが彼らはできないのですからね。
 相手を出し抜いて殺す、暗殺の仕事。
 油断した隙の失言を拾う諜報。
 善児の仕事は能力で相手を超え、身分を飛び越して刹那の立場を逆転させることができます。
 屈折はしていても、ひとり誇りを持つには十分でしょう。

「できる」事が誇りの源泉だとすれば「さすがに年を取りました」という理由で弟子を養成する準備の良さも頷けます。
 目標を仕止め損ねた、という失敗は「できる」事から得られる優位の全てを失うことですから。
 失敗すれば下人という立場に輪を掛けて蔑まれる。耐えられない屈辱でしょう。
 トウを拾ったのは範頼暗殺のとき。自分が孤児にした子供をはっきり弟子にする意図を持って連れ去ったのですから、その前から考えていたことになります。
 範頼と居合わせたトウの両親五藤太夫妻を、気づかれる隙もなく一瞬の内に殺す善児の様子に衰えは見えない。
 その段階で近い内の自分の衰えを認め、対策として弟子を育てることのできる善児の客観性と計画性。
 この一事が示すのは善児の有能さだけではなく、任務完遂への強いこだわりです。
「できない」事が恥だと言い換えてもいい。
 自分の体の限界を直視できないのも、その対策が打てないのも恥なのです。
 自分が突いてきた他人の隙、体面や愛憎を含めた執着、しがらみ、その一切を排除することも含めて善児の磨いてきた技術であり、誇りと言えるでしょう。
 有能であり、強者である為のストイックと非人間性。
 軽く速く華やかでさえある非現実的な、その仕事を支える善児の人となりは同じく実現の難しそうなハイレベルの自己管理と客観性です。

 次に考えるのは、そのハイレベルの限界となる例外例。
「一幡」という運命の作用です。

3:運命の子、一幡
 頼家の子、比企一族の子。
 比企を滅ぼした以上は北条の存続の為生かしておけない悲運の子。
 この子の殺害を躊躇い、先延ばしにした短い期間の後である。
 前述の通り「できる」ことが誇りで「できない」ことが恥である善児が「できねえ」と殺害を拒む。
 しかも「あの子はわしのことを好いてくれている」という理由。
 それは義時も言うでしょう「らしくないことを申すな」と。
「千鶴丸と何が違う」、もっともです。
 一幡が善児にもたらした緩みは何だったのか。

 一幡は、泰時の命によって善児のところへ一時的に預かられた幼児です。
 不要なものを排除した生活を送る善児の家に、実用的なことはまだ何もできない上流社会の幼児。手習いだって自分の名前程度ですよ。
 その存在自体が善児にとっては非日常でしょう。
 殺さなくていい、むしろ事故があっては困る目の離せない子供。
 あくまで一時的という前提で、目的を持って訓練させることもない子供。
 自分が子供の扱い方をわからなくても、両親に可愛がられて育ったトウがいる。
 トウが一幡と遊んでいるのを見ている内に子守のコツを飲み込んで、ブランコまで制作するに至ったのなら善児の学習応用力はすごい。
 潜入や諜報の技術もそうやって上げてきたのかもしれない。
 無警戒に至近距離で「楽しく過ごす」姿を見せ続けられれば、それはその学習能力で無駄な楽しみの味を覚えますね……。
 無駄なく、感情の揺らぎなく生きてきた善児が初めて手にする理由なき無駄、贅沢品であったでしょう。
「あの子はわしのことを好いてくれている」という言葉には、実際に屈託無く笑う一幡の様子の他、あくまで自分が執着しているのではないという言い訳が見えます。
「できねえ」
 自分がそう思ったこと自体にも動揺しているのではないでしょうか。
 する筈のない執着だった。
 腹を決めて短刀を手にしても、トウが一幡を連れ去ることの意味を知っていても、遊具を片付けても一向に消えない執着。
「千鶴丸と何が違う」という事実が過去の子供に対しても改めての執着をもたらす。
 罪の認識と苦しみ。
 トウ役を演じる山本千尋さんのインタビュー(https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/08/28/kiji/20220828s00041000593000c.html)によると一幡の死で善児が傷つくことを想定しながら一幡を「水遊び」に連れ出す演出だそうなので、彼女は殊更に一幡と楽しく遊び、余計に善児と触れさせたかもしれない。
 トウは一幡の改めての殺害命令を予感し、善児がしていなかったとしたら間違いなく判断に甘さがあった。
 もしくは予感していたにも関わらず、執着を植え付けられてしまったか。
 老いだ、衰えだ、堕落だ。
 そう切り捨ててしまうのは簡単だけれど、元々人外の領域であった善児の執着のなさを、他の人が達成できるかと言えばそもそもが無理な話です。
 善児さえ一幡を可愛く思ったということは、トウだって本気で一幡を可愛がってみせたということでもあるでしょう。
 善児の執着にトウの仕掛けた罠の側面があるとするなら、彼女の復讐に対する執着がもたらす捨て身に負けたのです。

 ファムともオムとも言い難い、アンファン・ファタール。
 寄れば最後善児さえ可愛いと思う子供は、確かに生かしておいてはならず、それでも憐れに思うべき存在です。
 物語において千鶴丸は始めの子、一幡は終わりの子。
 いずれ善児に訪れる罪の象徴であったでしょう。

4:一幡の死は善児とトウに何をもたらしたか
 一幡の死後、善児が苦しんだのはわかる。
 小屋の横には一幡の墓があり、無造作に出してある宗時遺品の巾着は、罪を義時に打ち明けてしまおうか悩んでいるからでしょう。
 それでも善児は悲しみの消えきらない顔で、八つ当たりするように薪を割る。
 人のできない暗殺という仕事ができること、その為に無用なものを全て捨てられる、職人気質とも言える孤高の自尊。
 だとすれば悲しみにくれて普通の人のように心乱れ、一幡への執着が断ち切れない自分の姿は、善児にとって恥だと思う。
 その取り返しに挑んだのが頼家暗殺であったでしょう。
「善児、仕事だ」
 告げられる義時の指令に善児の表情は消える。
「へぇ。」
 ただ一言に返す、その抑揚の無い声は善児のプライド。
 そして暗殺の現場で「一幡」の文字に動揺し、標的の頼家に致命傷を負わされ、トウに親の仇と宣告された上で止めを刺される。

 ここだけ切り取れば、善児の死因は一幡への執着であり、いわゆる「人の心を得た所為で死んだ」というパターンです。
 そこをもう一度考えたい。
 善児は頼家の奇襲に失敗し、正面から切り結ぶ形になっています。
 刃渡りの違い、腕力の違いは善児に大きく不利だ。
 事実、頼家に背中を切られたとき、善児は足に薄い傷を負わせたのみです。
 一幡の動揺がなくても仕損じた、返り討ちにあった可能性はかなり高いと見ていいのではなかろうか。
 トウという二の太刀はこういう時の備えであり、彼女がいたので頼家暗殺の任務完遂は果たせている。
 これは一幡の動揺抜きに善児が切られた場合でも十分機能する仕掛けであるから、やはりトウは頼家の暗殺に成功するだろう。そして善児を討つ。
 一幡の死の悩みがない場合、自分が仕損じ、その上弟子に殺される徹底的な弱者と化した自分を善児は受け入れる事ができたでしょうか。
 私は無理だと思います。
 しくじりを重ねたことを直視できず、暴れ、もがき、流血に引きずられるような陰惨な死を遂げていたのではないか。
 それは常に事実を直視し、対策をなし、不要なものを捨ててきた善児の死としては余りに無惨な劣化の姿と思います。

 今まで軽々と捨ててきた執着が捨て切れず、一番集中力のいる局面で気を逸らした。
 現場を離脱し「しくじったなぁ」と呟くときも、善児は冷静だったろう。一幡の死から悩み続けた罪の自覚も思い出し、だからトウの恨みも理解した。
「この時を待っていた」
 引導を渡すようなトウの声に善児はただ頷く。
 自分の衰え、一幡への想い、罪の意識、残り少ない命。
 その全てを受け入れ、善児は自分の生を手放すことを瞬時に決めたのだと思う。
 任務は遂行され、不要なものは自分である。
 自分を超えたトウに殺されるのは恥ではない。贖罪でもある。
 ただ頷き、自分の存在を捨てていった。それは職人の誇り高い最後であったと私は思います。
 だからこそトウの心は善児の死に揺らぐ。
 憎い恨み、技術の恩恵。苦しむ人の心をトウは捨て切れていないということは、苦しむ善児の姿にも影響を受けた筈で。
 一色の感情に偏らないようトウを作り上げてくれた役者・脚本・演出あっての深い余韻でした。

 善児は一幡によって破滅したが、一幡の導きで衰えを超えて死んだ。
 千鶴丸を殺した者が生きている限り、千鶴丸は成仏できず頼家は短命で死ぬ。
 その呪いの見立てと添わせるならば、千鶴丸は一幡として再び死ぬことで善児を殺し、同時に導くことで自らの呪縛を解いていったのかもしれない。
 善児の運命は常に子供にあり、それゆえ名前に「児」の一字があるとしたら、孤高の汚れ役の世界はほんのり明るさを持つように思えるのです。