読書感想文:「ニホンオオカミは消えたか?」(宗像充/旬報社)2017/05/17

 日本一有名な絶滅種、そして生存のニュースと否定のニュースが繰り返されるニホンオオカミ。
 しかしどちらかというと生存と絶滅の話に左右されがちなその種の「そもそもニホンオオカミとは」という話に読み応えがありました

 ニホンオオカミの同定に使われるタイプ標本はシーボルトの採集によるものです。
 しかしシーボルトが本国に送った標本は「オオカミ」と「ヤマイヌ」のはずだった。それが何故か一種類として登録され(書中では分類と登録を行った学者との確執が原因と考えられている)、そして生態を調査する前に「絶滅」とされてしまった為に、改めて生態を調べる学問的な研究の対象外となり、最初の分類を再評価する機会が無く今日まで来ている、という。
 つまり同定の基礎となる「タイプ標本」自体が「タイプ標本」として機能できるのか。という話は凄みがある。
 思えばリンネによる生物分類の基礎(1735)動物命名法の基準(1758)から100年に満たないシーボルト来日(1823)。「種の起原」(1859)さえ発表されていない、「新種の採集」に情熱を傾けていた時代。
 系統だった西洋式生物学の素養の無い土地で、ろくなフィールドワークも無いまま採集した数少ない標本を、現地に行ったことも無い学者が経験と知識で分類していた訳だから、不備があってもおかしくはない訳ですよね……。

 そして絶滅が宣言されたときから、その存在は宝探しの対象になり、生態研究の専門家からは無視される。調査は在野の研究家によることになるけれどアマチュアの限界もある、組織だった研究には中々結びつかない。
「いるわけないだろう」が先に立つ怖さともどかしさ。
 その辺がとても面白く思えたのだけれど、あと一歩欲しいな……と思う所。

「いるわけがないだろう」が一向に改善されていかない、再考されないところを「オオカミ再導入派の政治的利益」に持っていくのは正直イマイチ。再導入論が盛り上がる前にも「いるわけないだろう」のままでいた原因にはならないのではないかしら。
「ニホンオオカミの生存と正体」というテーマと「再導入批判」は分けた方が、論点がぼやけないでいいんじゃないかな……と。
 おそらくニホンオオカミの調査をしている人の中で、今一番ホットな話題が「再導入けしからん」なのではないかと思うのです。その中に身を置いている以上当然のこととして取り上げたのでしょうが、既にそれ自体が詰めの甘いところでは。
 意見の対立を取り上げるなら、本来双方に対しての取材が要る。取材はゼロではさすがにない。でも読んだ印象がどうにも「再導入派の奴ら気に食わねぇ」の域から抜けていないのは、取材が不足しているからだと考えます。
 同様に、証明の為の知識が足りてないところに来ると、取材対象の人格の話で補いにかかる気配があります。「おれ専門家じゃないからよくわかんないけど、この人が言うんだからあってると思います」まであと一歩というところか。
 取材対象に近過ぎて、客観的な評価をしようという意識が薄いんだと思うのです。
 信頼を得るまでつきあい、かつ素直なのはいいけれど、ちょっと甘い。
 社会問題として取り上げるなら尚のこと甘い。略歴から見れば本来そっちが専門でしょうに。
 向こうの取材に行けばこちらの信頼を無くす、という話であれば、それこそ「大事な話だと思うのに社会的に信頼してもらえない」原因のひとつでしょうが。

 ニホンオオカミの生存と正体、それが「よくわからない」という他無い程研究が進んでいない、そこを伝えるルポタージュとしては良作です。ジャーナリズムとしては並の域は出ない、かな……。
 再導入については私「そんな都合良く進む訳あるかヴォケ海外成功例の地理的条件考えんかい」の立場ですけどね。
 調べる、伝える、難しさを感じます。

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