血界アニメ12話「Hello, world!」感想 ― 2017/01/11
……まあ、今更かよ?というこの遅れに遅れた時点で、薄々おわかりかとは思うんですけど。
惜しい。
できることならこの監督に最低でも三話構成の最終回別枠と、予算と、その他諸々の制作資源を差し上げたかった。
各シーンごとの映像の見せ方はアニメシリーズで何度と無く見せられた色の鮮やかさ、構図の切り方、間合い共々素晴らしい出来で──、
だからこそ、話の内容がズタズタなのがとても気にかかる。
わかります、どうしても削れないシーンだけを残した結果だということは。だから伏線でつないできたことも、説明は最後に持ってくるつもりだった話も、削らざるを得なかったのだと。
そしてその結果として削った話を入れるためにシーンごとの時間を削ったら、おそらくアニメ自体の個性が死ぬ。
シリーズ構成の失敗だと言わば言え。それでもおそらく当初の予定より膨れ上がった話を、たった15分増えただけの枠に詰め込んだところに無理がある。
1を100にする人に、50を作れというのは難題なんですよ。
その為に、「大崩落」時のマクベス家の動向については大きく削られた。
絶望王との出会いも契約内容も説明不足。鍵となりそうな「マザー・メアリー」という単語の説明も無い。
その日が万聖節である必要性も削られた。
レオがホワイトの元へ行かなければならないと悟る過程も説明されない。
よって、クラウスがレオの到着を待つ時間稼ぎをする理由も説明されない。
能力だけではない、ライブラがレオを仲間に入れた訳という、伏線として入れられたに相違ないクラウスの台詞も未回収。
あったはずでしょう、あったんだよな?切らなくちゃ収まらないだけのどうしようもない事情があったんだよな?
そう食いつかずにいられない。
おそらく本来のスケジュールが一度切れ、やり直しの再スケジュールで間があいた所為で忘れられた伏線もあると思います。
タイトルも「悪魔を憐れむ歌」から「Hello, world!」に変更になっているので、脚本とコンテも全部やり直したのは想像がつきます。
しかしその打ち切られた話の動線に引っかかっていると、見せ場中の見せ場でレオの絶唱が伝わらない。一番いいところなのに。
演出は素晴らしかった、演技も申し分無い、だが響かない。
「光に向かって一歩でも進もうとしている限り 人間の魂が真に敗北することなど断じて無い」
原作でもここ一番で持ち出されてくる印象的な「クラウスの」台詞だけに、その台詞を「レオが」引用してくるまでの過程が説明不足だと、唐突さが増してしまうんですよね。
原作で使われたシーンがなまじ1回だけでは無いだけに、今見ているアニメの筋に原作のシーンが無理につなげられてしまう印象を受けました。
ちゃんと原作を借景にして、アニメならではの世界に一層の広がりを持たせられた筈なんですよ、オリジナルの筋を丁寧につなぐだけの尺があれば。
打てば響くあの映像のテンポの良さで、その辺のリンクをじっくり味わいたかったなぁ。
だから、惜しい。
シーンごとの演出が、むしろ鬼気迫る見事さであるだけに、その橋渡しが十分でないのが心底惜しい。
この惜しい部分を以てシリーズの評価を下げようとは思わない。
これこそが作品の世界という美しい背景にカメラワーク、そして声。垢抜けたキャラクターデザイン。
あの妥協無いイメージを根気強く打ち立ててくれたからこそ、他の監督さんでも第二期を楽しみにできる。
そしてできればいつかマクベス兄妹と絶望王の話をきちんと最後まで詳しく聞けることを、楽しみにしています。
惜しい。
できることならこの監督に最低でも三話構成の最終回別枠と、予算と、その他諸々の制作資源を差し上げたかった。
各シーンごとの映像の見せ方はアニメシリーズで何度と無く見せられた色の鮮やかさ、構図の切り方、間合い共々素晴らしい出来で──、
だからこそ、話の内容がズタズタなのがとても気にかかる。
わかります、どうしても削れないシーンだけを残した結果だということは。だから伏線でつないできたことも、説明は最後に持ってくるつもりだった話も、削らざるを得なかったのだと。
そしてその結果として削った話を入れるためにシーンごとの時間を削ったら、おそらくアニメ自体の個性が死ぬ。
シリーズ構成の失敗だと言わば言え。それでもおそらく当初の予定より膨れ上がった話を、たった15分増えただけの枠に詰め込んだところに無理がある。
1を100にする人に、50を作れというのは難題なんですよ。
その為に、「大崩落」時のマクベス家の動向については大きく削られた。
絶望王との出会いも契約内容も説明不足。鍵となりそうな「マザー・メアリー」という単語の説明も無い。
その日が万聖節である必要性も削られた。
レオがホワイトの元へ行かなければならないと悟る過程も説明されない。
よって、クラウスがレオの到着を待つ時間稼ぎをする理由も説明されない。
能力だけではない、ライブラがレオを仲間に入れた訳という、伏線として入れられたに相違ないクラウスの台詞も未回収。
あったはずでしょう、あったんだよな?切らなくちゃ収まらないだけのどうしようもない事情があったんだよな?
そう食いつかずにいられない。
おそらく本来のスケジュールが一度切れ、やり直しの再スケジュールで間があいた所為で忘れられた伏線もあると思います。
タイトルも「悪魔を憐れむ歌」から「Hello, world!」に変更になっているので、脚本とコンテも全部やり直したのは想像がつきます。
しかしその打ち切られた話の動線に引っかかっていると、見せ場中の見せ場でレオの絶唱が伝わらない。一番いいところなのに。
演出は素晴らしかった、演技も申し分無い、だが響かない。
「光に向かって一歩でも進もうとしている限り 人間の魂が真に敗北することなど断じて無い」
原作でもここ一番で持ち出されてくる印象的な「クラウスの」台詞だけに、その台詞を「レオが」引用してくるまでの過程が説明不足だと、唐突さが増してしまうんですよね。
原作で使われたシーンがなまじ1回だけでは無いだけに、今見ているアニメの筋に原作のシーンが無理につなげられてしまう印象を受けました。
ちゃんと原作を借景にして、アニメならではの世界に一層の広がりを持たせられた筈なんですよ、オリジナルの筋を丁寧につなぐだけの尺があれば。
打てば響くあの映像のテンポの良さで、その辺のリンクをじっくり味わいたかったなぁ。
だから、惜しい。
シーンごとの演出が、むしろ鬼気迫る見事さであるだけに、その橋渡しが十分でないのが心底惜しい。
この惜しい部分を以てシリーズの評価を下げようとは思わない。
これこそが作品の世界という美しい背景にカメラワーク、そして声。垢抜けたキャラクターデザイン。
あの妥協無いイメージを根気強く打ち立ててくれたからこそ、他の監督さんでも第二期を楽しみにできる。
そしてできればいつかマクベス兄妹と絶望王の話をきちんと最後まで詳しく聞けることを、楽しみにしています。
「真田丸における後藤又兵衛の人物像について」 ― 2017/01/11
私とて何も最初っから又兵衛が、嫌いだった訳じゃないけどここまで好きだった訳でもない。
何しろわかりにくさの塊のようなところがありました。
突っ掛かってくる割には南の出丸予定地は譲ってくれるけど、その後だって文句は多いし戦闘でも「俺が撃たれてねえっつってるんだ!」は面白いけど、あまり頼りにしていいもんかどうか迷いますよね。
かっこいいこと言うシーンはあっても、割と突然に語り出すので、一貫性が無いようにも見える。
むしろお前は何がしたいんだ。
何しろ肝心のところで又兵衛は己の心情を語りません。
モノローグを使わない真田丸の場合、己の内面を台詞で吐かない人物の心情は、状況を整理して動作や視線、表情など他の要素から読む他無いんです。
又兵衛の特徴は、沈黙にあると思います。
何か大事なことを決めているとしたらここだな、というシーンでは必ず又兵衛は黙ります。
ただ言葉を発しないだけでなく、画面の目立つところからも抜けていきます。
状況の観察に一番適した場所で、相談することなく一人で考えている。埋没しているとき、表情もほぼ固定されているのは外からの干渉を遮断している一種の「型」としての表現だと思います。
自分で決断するべき場所を流されずに判断できる、ここに又兵衛の案外な冷静さを見ることができます。
智将としての素地というよりは、長年現場で必要だったから身についた感性。
つまりベテランの専門職なんですよね。職人としての武将。
ベテランなので、自分の実力は良い面でも悪い面でもよくよく把握していると考えられます。能力の下限は平均よりずいぶん高いところにあって誇りに、上限の伸び代の無さは屈折になるでしょう。
優秀なベテラン故のめんどくささがここにある。
更に又兵衛は黒田家出奔以来の苦労があります。
……多分奉公構を食らう苦労はね、疑り深さと後々ネガティブな連想しか浮ばなくなるような悪夢の記憶との集合体ですよ……。そんなもん食らう方も食らわす方もよくよく頑固ですね……。折れろよ!どっちかが!
性格がより一層屈折したろうなって想像をこれで追加。
誇り高さと卑屈さを併せ持ち、仲間思いの度量と同じくらい小心で見栄っ張りな職人気質の又兵衛というものを想定すると、大体矛盾なく台詞の無い部分を補完できると思うのです。
本当に、行くところが無かったから現実的な判断のみで大坂へ来たんですよ。そんな事情言いたくないから言わないんです。
主導権を握る奴が出ると自分が追い出される可能性があるから、幸村に対する最初の反発が派手なんです。
真田丸案の方が出来がいいから幸村に南の台地を譲るんです。
状況が膠着しているとき、暇なときにはまた苦労してきた心の傷が疼くからまた文句を言うし、団右衛門の夜討ちツアーにも参加する。初陣の若武者の手前いいとこ見せたくて下手を打つ。
それでも、幸村に付き合っても悔いは無いかなと判断したから大坂に残る。
城に家族を呼んでいいですよ、となれば呼ぶ家族の無い連中を集めて寂しくないようにするし、おそらく家族を呼んだ相部屋の明石に気を使って部屋を空けてやった側面もあるでしょう。
堀の再掘削を止め切れないのは、主馬の勢いからしてもうそう長くは止められないというある種ベテラン故の諦めの早さと考えます。それと、やっぱり動きの無いときの集団内の鬱屈にいやな記憶のひとつふたつあるのかな。
私は面倒くさくて繊細で夢と辛抱の足りないおっさんな又兵衛が、好きですよ。
最期はなぁ。
佐渡守の計算という演出が、本当に華のある手向けで。
佐渡守の言う通りの調略に対する心理的影響と、諦めの良さの相乗かと。
幸村と又兵衛は、実務者としての考え方は多分似ています。
そして残念ながら又兵衛は幸村ほどしぶとい希望を持っていません。
幸村の死に支度に気付いているでしょうし、仮に最上の結果に落ち着いても一大名となった豊臣家に自分を仕官させるゆとりが無いことも、わかっていたでしょう。そして再び放逐されたらどうなるかは、既に経験済みです。
道明寺で死にたかった訳ではなくとも、戦の渦中で死に場所に十分と思うところは多分あった。
播磨35万石、十分誇りに足る評価を花と受け取って、駆けてっちゃったんだなあ……。
又兵衛に限らず五人衆全員に言えることですが、それぞれ不遇の時期の所為で多かれ少なかれ最初の頃は荒んでいるんですよね。
そして豊臣家の甘さは最初の方がよりひどい。
仲間を得て、本来の輝きを見せていく五人衆と、後手に回りながら必死に成長しながら戦い抜いた豊臣家とを思うと、やはり真田丸はいいドラマだったなと。
滅びの美学のような哀れさはなくとも、ただ強くあろうとした。できることを悔いなく最後まで戦い抜いた。
素晴らしい大坂の陣だったと、泣きながらでも思うのです。
何しろわかりにくさの塊のようなところがありました。
突っ掛かってくる割には南の出丸予定地は譲ってくれるけど、その後だって文句は多いし戦闘でも「俺が撃たれてねえっつってるんだ!」は面白いけど、あまり頼りにしていいもんかどうか迷いますよね。
かっこいいこと言うシーンはあっても、割と突然に語り出すので、一貫性が無いようにも見える。
むしろお前は何がしたいんだ。
何しろ肝心のところで又兵衛は己の心情を語りません。
モノローグを使わない真田丸の場合、己の内面を台詞で吐かない人物の心情は、状況を整理して動作や視線、表情など他の要素から読む他無いんです。
又兵衛の特徴は、沈黙にあると思います。
何か大事なことを決めているとしたらここだな、というシーンでは必ず又兵衛は黙ります。
ただ言葉を発しないだけでなく、画面の目立つところからも抜けていきます。
状況の観察に一番適した場所で、相談することなく一人で考えている。埋没しているとき、表情もほぼ固定されているのは外からの干渉を遮断している一種の「型」としての表現だと思います。
自分で決断するべき場所を流されずに判断できる、ここに又兵衛の案外な冷静さを見ることができます。
智将としての素地というよりは、長年現場で必要だったから身についた感性。
つまりベテランの専門職なんですよね。職人としての武将。
ベテランなので、自分の実力は良い面でも悪い面でもよくよく把握していると考えられます。能力の下限は平均よりずいぶん高いところにあって誇りに、上限の伸び代の無さは屈折になるでしょう。
優秀なベテラン故のめんどくささがここにある。
更に又兵衛は黒田家出奔以来の苦労があります。
……多分奉公構を食らう苦労はね、疑り深さと後々ネガティブな連想しか浮ばなくなるような悪夢の記憶との集合体ですよ……。そんなもん食らう方も食らわす方もよくよく頑固ですね……。折れろよ!どっちかが!
性格がより一層屈折したろうなって想像をこれで追加。
誇り高さと卑屈さを併せ持ち、仲間思いの度量と同じくらい小心で見栄っ張りな職人気質の又兵衛というものを想定すると、大体矛盾なく台詞の無い部分を補完できると思うのです。
本当に、行くところが無かったから現実的な判断のみで大坂へ来たんですよ。そんな事情言いたくないから言わないんです。
主導権を握る奴が出ると自分が追い出される可能性があるから、幸村に対する最初の反発が派手なんです。
真田丸案の方が出来がいいから幸村に南の台地を譲るんです。
状況が膠着しているとき、暇なときにはまた苦労してきた心の傷が疼くからまた文句を言うし、団右衛門の夜討ちツアーにも参加する。初陣の若武者の手前いいとこ見せたくて下手を打つ。
それでも、幸村に付き合っても悔いは無いかなと判断したから大坂に残る。
城に家族を呼んでいいですよ、となれば呼ぶ家族の無い連中を集めて寂しくないようにするし、おそらく家族を呼んだ相部屋の明石に気を使って部屋を空けてやった側面もあるでしょう。
堀の再掘削を止め切れないのは、主馬の勢いからしてもうそう長くは止められないというある種ベテラン故の諦めの早さと考えます。それと、やっぱり動きの無いときの集団内の鬱屈にいやな記憶のひとつふたつあるのかな。
私は面倒くさくて繊細で夢と辛抱の足りないおっさんな又兵衛が、好きですよ。
最期はなぁ。
佐渡守の計算という演出が、本当に華のある手向けで。
佐渡守の言う通りの調略に対する心理的影響と、諦めの良さの相乗かと。
幸村と又兵衛は、実務者としての考え方は多分似ています。
そして残念ながら又兵衛は幸村ほどしぶとい希望を持っていません。
幸村の死に支度に気付いているでしょうし、仮に最上の結果に落ち着いても一大名となった豊臣家に自分を仕官させるゆとりが無いことも、わかっていたでしょう。そして再び放逐されたらどうなるかは、既に経験済みです。
道明寺で死にたかった訳ではなくとも、戦の渦中で死に場所に十分と思うところは多分あった。
播磨35万石、十分誇りに足る評価を花と受け取って、駆けてっちゃったんだなあ……。
又兵衛に限らず五人衆全員に言えることですが、それぞれ不遇の時期の所為で多かれ少なかれ最初の頃は荒んでいるんですよね。
そして豊臣家の甘さは最初の方がよりひどい。
仲間を得て、本来の輝きを見せていく五人衆と、後手に回りながら必死に成長しながら戦い抜いた豊臣家とを思うと、やはり真田丸はいいドラマだったなと。
滅びの美学のような哀れさはなくとも、ただ強くあろうとした。できることを悔いなく最後まで戦い抜いた。
素晴らしい大坂の陣だったと、泣きながらでも思うのです。
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